神奈川県横須賀市 長沢海岸U | |||
昭和62年(1987)11月8日除幕 |
|||
第8歌集『砂丘』の「三浦半島」(43首)に「病妻を伴ひ三浦半島の海岸に移住す、三月中旬の事なりき」(4首)として収められている。 海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず ひとすぢに白き辺浪ぞ眼には見ゆ御空も沖も霞みたるかな うつうつと霞める空に雲のゐてひとところ白く光りたるかな 「三月に来て、いつのまにか七月になつた。当時毎日深い霞のなかに沈んでゐた鋸山が、今はまつたく夏の姿になり切つた。この山は此処から見れば誠に風情のある山で、さんざんに切り刻まれた ー この山からは石灰石を盛に切り出す ー 痕さへもそれほど殺風景に映らない。淋しくなれば昼日中でも浜に出てこの山と相対するのが癖になつた。」とは『旅とふる郷』「砂丘の蔭」の一節。当時は東京から船で5時間、船賃19銭だったという。 「三浦半島」中の他の歌に、 昼の井戸髪を洗ふと葉椿のかげのかまどに赤き火を焚く (妻の病久し) 昼深み庭は光りつ吾子ひとり真裸体にして鶏追ひ遊ぶ (吾子旅人) 近づけば雨の来るとふ安房が崎今朝藍深く近づきにけり (或朝) 昼の浜思ひほほけしまろび寝にづんと響きて白浪あがる (昼の浜) 黒がねの鋸山に居る雲の昼深くして立ちあへなくに (夏深し) 物理学者長岡半太郎の別邸を京浜急行電鉄が修理・復元して横須賀市に寄贈した「長岡半太郎記念館」に「若山牧水資料館」が併設され、その前庭に建立されたが、上記「夫婦歌碑」とともに現在地に移された。 |
|||
|
神奈川県横須賀市野比 最光寺 | ||
昭和60年(1985)4月11日除幕 |
||
第9歌集『朝の歌』「春浅し」の中に、「来福寺にて」と題して2首載っている。大正5年(1916)早春、梅見に招かれた時の作。 友の僧いまだ若けれしみじみと梅の老木をいたはるあはれ 酒出でつ庭いちめんの白梅に夕日こもれるをりからなれや 「春浅し」の中には、「梅咲く」4首、「同く」2首、「梅」7首の他にも梅を詠った歌が多く収められている。また、 みちのくの雪見に行くと燃え上るこころ消しつつ銭つくるわれは (或日) と「残雪行」の旅へのはやる思いも見られる。 来福寺は、三浦市南下浦町の和田山来福寺で、真宗大谷派に属し、三浦半島を領有していた三浦氏の一族、和田義盛の菩提寺だという。牧水はそこの和田祐憲(当時23歳)と親しかった。最光寺は天正元年(729)行基が現在の茅ヶ崎市に創建し、天文9年(1540)現在地付近に移った浄土真宗大谷派の寺で、祐憲の娘の嫁ぎ先。インターネットの検索によれば境内には魚貝供養塔や多くの石像があるとか。 |
||
|
神奈川県横須賀市 横須賀大津高校 | |||
昭和61年(1986)6月除幕 |
|||
没後10年になる昭和13年に発行された第15歌集『黒松』の「昭和三年」編「曇を憎む」中最後の歌。 つばくらめ飛びかひ啼けりこの朝の狂ほしきばかり重き曇に 紫陽花の花をぞおもふ藍ふくむ濃きむらさきの花のこひしさ 「昭和三年」には、「池の鮒」9首、「雑詠」12首、「『春花譜』と題せし中より」4首、「この頃取り出で用ゐたる」1首、「中村柊花に寄す」1首、「合掌」3首、「麦の秋」10首、「水無月」7首、「曇を憎む」14首、「奉祝」2首、「最後の歌」2首の計65首が収められている。ほぼ制作順かと思われるから、最も遅い時期の作ということになろう。 妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶て飲み噎せ鼻ゆこぼしつ (合掌) うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり 足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる 酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を (最後の歌) 芹の葉の茂みがうへに登りゐてこれの小蟹はものたべてをり 大津高校の初代校長は、牧水の孫榎本篁子氏(旅人長女。沼津市若山牧水記念館長)のつれあい尚美氏の母方の祖父にあたり、碑文にあるように創立80周年記念事業の一環として建立された。 |
|||
|
神奈川県川崎市片平 山崎宅 | |||
昭和37年(1962)11月9日除幕<35> |
|||
最光寺の歌碑と同じ第9歌集『朝の歌』「春浅し」82首の中に、さらに「春浅し」の詞書がつけられた2首がある。大正5年(1916)の早春、といっても2月末には前々年から頭にあった東北地方へ出発するために上京しているから、2月半ば頃までの作か。 わが庭の竹の林の浅けれど降る雨見れば春は来にけり 鴬はいまだ来啼かずわが背戸辺椿茂りて花咲き篭る 碑を建てた山崎斌(あきら)という人は、明治25年(1892)長野県麻績村の本陣・臼井家に生まれ、5歳の時当時の南条村(現 坂城町)の山崎家に養子となる。藤村や牧水・白秋などと親交があり、大正10年(1921)には長編小説「二年間」を著している。また、昭和初年の大恐慌で農村が困窮したことから自ら「草木染」と命名した古来の染色を奨励した人物で、その子に「高松塚古墳女子群像」の服色を再現した青樹氏など、以後山崎家は代々染色の道を究めているという。晩年、片平の住居兼工房を「草木寺」と呼び活動拠点とした。そこの庭に藤村・牧水・凡兆の碑を建てたものである。 牧水が喜志子に求婚した明治45年(1912)は、3月16日から18日まで山崎方に滞在、その後山本鼎方に落ち着いて上田等で歌会を開いたりもしている。3月の29か30日、麻績で歌会があると誘われた喜志子はそれに参加するが、歌会ならぬ宴会に喜志子は茫然、しかし帰宅するにも汽車がなく、やむなく多少縁故のあった山崎の実家に泊めてもらい翌朝逃げるようにして帰宅する。牧水もその家に宿泊。喜志子の帰った後葉書をしたため、4月2日村井駅で落ち合い、結婚してほしい旨を告げたのだった。小枝子との恋に苦悩のどん底をなめた牧水は、「新生」を求めて、東京を離れる時から喜志子に求婚するつもりであったようだが、山崎はある意味仲人役を果たしたといってもいいだろう。 |