牧水ー碑の詩

盛岡 啄木と賢治 ・ 北上Album



◆ 下橋中学校 啄木歌碑


  その昔
   小学校の
    柾屋根に
  我が投げし
        鞠
   いかにかなり
         けん

       京助書

  本校は、明治二十年(一八八七年)南岩手高等学校として
 創立以来、盛岡高等小学校、盛岡尋常高等小学校、再び
 盛岡高等小学校、盛岡国民学校そして昭和二十二年、現
 在の下橋中学校となり、九十余年の歴史を有する。 この間
 米内光政、金田一京助、石川啄木など幾多の人材を輩出
 し、卒業生は三万二千名を数える。             
  金田一京助博士は、石川啄木の二年上級で中学時代よ
 り晩年まで親交厚く、堅い友情で結ばれていた。とくに博士 
 は、啄木の生活や歌集の発行などについても協力と援助を惜
 しまなかった。(中略)                       
  向いの歌碑は、啄木の歌を博士が後年書かれたもので、創
                立九十周年を記念し、昭和五十二年秋、本校旧職員有志
                により建立されたものである。
                    昭和五十四年七月
                            第十八代学校長 佐々木 竹夫


◆ 岩手公園 啄木歌碑



  不来方のお城の草に寝ころびて

  空に吸はれし

  十五の心

               啄木   
     

 少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学は内丸通りに在り、岩手公園とは200メートルと離れていなかった。         
 この歌碑は、昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して盛岡啄木会の協力で建てられたものである。かつては、ここから岩手山を遠望することができ、盛岡市内も見おろせる風光の地であっ
た。
 歌碑の文字は、啄木の親友金田一京助博士
                       の書である。


◆ 岩手公園 賢治詩碑
 
               岩 手 公 園
   「かなた」と老いしタピングは、  杖をはるかにゆびさせど、
   東はるかに散乱の、       さびしき銀は声もなし。

   なみなす丘はぼうぼうと、     青きりんごの色に暮れ、
   大学生のタピングは、      口笛軽く吹きにけり。

   老いたるミセスタッピング、      「なが姉はこゝにして、
   中学生の一組に、        花のことばを教へしか。」

   弧光燈にめくるめき、       羽虫の群のあつまりつ、
   川と銀行木のみどり、       まちはしづかにたそがるゝ。
                            賢 治




◆ 盛岡駅前 啄木歌碑                                                                          ◆ 岩手医科大学 啄木歌碑



                   啄木

  ふるさとの山に向ひて

  言ふことなし

  ふるさとの山はありがたきかな
     


  学校の図書庫の裏の秋の草

  黄なる花咲きし

  今も名知らず

               啄木

    ー 盛岡中学校跡 ー    













◆ 医大病院 賢治詩碑



       岩 手 病 院        宮 澤 賢 治

   血のいろにゆがめる月は  今宵また桜をのぼり
   患者たち廊のはづれに   凶事の兆を云へり

   木がくれのあやなきなみを 声細くいゆきかへりて
   熱植ゑし黒き綿羊     その姿いともあやしき

   月しろは鉛糖のごと      柱列の廊をわたれば
   コカインの白きかをりを    いそがしくよぎる医師あり

   しかもあれ春のをとめら   なべて且つ耐へほほゑみて
   水銀の目盛を数へ     玲瓏の氷を割きぬ

           一九七八年岩手医科大学創立五十周年記念


















                          賢治の入院と初恋
 この詩は、宮沢賢治の入院生活の体験をもとにして作られた作品で、「文語詩稿」の中の一篇。碑は岩手医科大学創立50周年の記念として建立された。
 賢治が岩手病院(現岩手医科大学付属病院)に入院したのは、盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)を卒業して間もない大正3年(1914年)4月のこと。以前から悪かった鼻の手術を行ったが、高熱が続き発疹チフスの疑いも出たため約1ヵ月の入院生活となった。その間、進学をめぐって父といさかい(賢治は盛岡高等農林学校への進学を希望し、父は家業(質・古着商)を継がせたかった。)ただでさえ気落ちする入院生活が、ますます陰鬱になっていった。窓の外に浮かんだ赤い月が血の色に見えたとしても不思議ではない。しかし、そのような入院生活の中で、賢治が恋をした。相手は岩手病院の看護婦さんである。賢治にとっては忘れられない初恋の思い出であった。
 その他にも、この頃の将来への悩み、初恋の思いをつづった賢治の作品が残されている。
   学校の 志望は捨てん 木々のみどり 弱きまなこにしみるこころか
   ぼろぼろに 赤き咽喉して かなしくも また病む父と いさかふことか
   今日もまた この青白き沈黙の 波にひたりてひとりなやめり
   十秒の碧きひかりの去りたれば かなしく われはまた窓に向く
                                                                 盛岡市・盛岡観光協会

◆ 御厩橋畔 啄木父子歌碑




  中津川                中津川や

   流れ落合ふ北上の          月に河鹿の啼く夜なり

  早瀬を渡る夕霞かな         涼風追ひぬ夢見る人と

            一禎                   啄木
     




    〜〜 盛岡市材木町(いーはとーぶアベニュー) 〜〜


   
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◆ 北上市臥牛


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◆ 北上駅前                                                                                                            ◆ 日本現代詩歌文学館

   
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