牧水ー碑の詩

関東3 (群馬県@=「みなかみ紀行」関連)

       <群馬県A>はここをクリック                                          <Album3  群馬>へ

 群馬県には20以上の牧水歌碑等があるが、その大半は大正11年(1922)10月、長野県佐久での短歌会に講師として招かれた牧水が、その後、草津・四万・法師・老神といった温泉に立ち寄りながら金精峠に至る「みなかみ紀行」の旅(10月14日〜28日)を記念して建立されたものである。このページでは、「みなかみ紀行」の行程にしたがってそれらの碑をまとめてみた。「紀行」関連以外の歌碑は、<群馬県A>に収録した。


 群馬県 小雨 六合(くに)小学校         吾妻郡中之条町大字小雨599-1
昭和50年(1975)10月20日除幕<70>
      大正十一年十月   牧水


  おもはぬに村ありて名のやさしかる

  小雨の里といふにぞありけり



  学校にもの読める声のなつかしさ身に

  しみとほる山里すぎて

 「みなかみ紀行」は「十月十四日午前六時沼津発」で始まる。15日佐久市岩村田での短歌会の後、門弟らと小諸・星野温泉・軽井沢と回り、そこからは門林という青年と二人嬬恋・草津温泉を経て、19日沢渡温泉を目指す。

ーー とりどりに紅葉した雑木林の山を一里半ほども降つて来ると急に嶮しい坂に出会つた。見下す坂下には大きな谷が流れ、その対岸に同じ様に切り立つた崖の中ほどには家の数十戸か二十戸か一握りにしたほどの村が見えてゐた。九十九折になつたその急坂を小走りに走り降ると、坂の根にも同じ様な村があり、普通の百姓家違はない小学校なども建つてゐた。対岸の村は生須村。学校のある方は小雨村と云ふのである。
       九十九折けはしき坂を降り来れば橋ありてかかる峡の深みに
       おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨の里といふにぞありける
       蚕飼せし家にかあらむを壁を抜きて学校となしつ物教へをり
       学校にもの読める声のなつかしさ身にしみとほる山里過ぎて   ーー 「みなかみ紀行」

 歌集では第14歌集『山桜の歌』の中に「ありとしも思はれぬ処に五戸十戸ほどの村ありてそれぞれに学校を設け子供たちに物教へたり。」と詞書きして、「小雨村」4首、「大岩村」2首、「引沼村」3首、「四万湯原村」1首、「永井村」1首が収められている(「紀行」とは一部表記が異なる)。

 かつては小学校の正門前だったそうであるが、現在は学校の石垣を背に六合支所から学校への信号を渡ったすぐ目の前にある由。歌を揮毫したものがなく、ペン書きの歌稿を拡大した文字が刻まれている。
                                                                                                                                          <Album3 六合小学校>へ

 群馬県中之条町 生須歌碑苑T         吾妻郡中之条町生須
昭和53年(1978)10月20日除幕<77>
                  牧水

  つづらをりはるけき山路登るとて

    路に見てゆくりんだうの花



  くれなゐの胸毛を見せてうちつけ

   に啼くきつゝきの声のさびしさ

                 (表記の文字は異なる)
地主  黒岩秀光
昭和五十三年十月二十日
六合村観光協会 
贈 伊勢崎市茂呂二五九八ー九
  星野石材工業 星野豊



 『山桜の歌』所収
       落葉松の苗を植うると神代ぶり古りぬる楢をみな枯らしたり      啄木鳥と鷹(15首)
       枯るる木にわく虫けらをついばむときつつきは啼く此処の林に
       くれなゐの胸毛を見せてうちつけに啼くきつつきの声のさびしさ
       白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りてきつつきは啼く
       つづらをりはるけき山路登るとて路に見てゆくりんだうの花        落葉と竜胆花(9首)
       散れる葉のもみぢの色はまだ褪せず埋めてぞをるりんだうの花を


 群馬県中之条町 生須歌碑苑U
平成7年(1995)11月

  
        若山牧水           もみぢ葉のいま           下草のすすき
  露霜の                    照り匂ふ                ほうけて
   とくるがごとく                  秋山の                光りたる
    天つ日の                 澄みぬるすがた           枯木が原の
  光をふくみ                  寂しとぞ見し              啄木鳥の声

    にほふもみぢ葉                若山牧水                 若山牧水

       露霜の解くるが如く天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉       『山桜の歌』 紅葉の歌(10首)
       もみぢ葉のいま照りにほふ秋山の澄みぬる姿さびしとぞ見し
       下草の薄ほほけて光りたる枯木が原の啄木鳥のこゑ                 啄木鳥と鷹(15首)


 歌碑苑は平成7年、地元の愛好者が牧水を偲んで造られたもので、「若山牧水の歩んだこの道 その跡を慕って村人が、短歌をつくった。」との立て札とともに、土地の人達の多くの歌碑が並んでいる。
                                                             <Album3  生須歌碑苑>へ

 群馬県 暮坂峠道(湯の平温泉入口)      吾妻郡中之条町
昭和52年(1977)10月20日除幕<76>
               枯れし葉と
                おもふ
                 もみぢ の
                ふくみたる
          この紅ゐを
        なんと申さむ


              溪川の
    真白川原にわれ等ゐて
             うちたたへ たり
               山の 紅葉を

                    牧 水

 歌集『山桜の歌』では「紅葉の歌」に「十月十四日より十一月五日まで信濃上野下野諸国の山谷を歴巡る。『紅葉の歌』より『鳴虫山の鹿』に到るまでその旅にて詠み出でたるなり。」との詞書が付されており、11月5日沼津の自宅に戻るまでの一連がまとめられている。一方「みなかみ紀行」は、利根川の一水源にたどりついた感動を効果的に表現するため群馬から栃木へと県境を越えたところで終わっており、それ以降は「金精峠より野州路へ」としてまとめられている。

       枯れし葉とおもふもみぢのふくみたるこの紅ゐをなにと申さむ    紅葉の歌 (その一)
       溪川の真白川原にわれ等ゐてうちたたへたり山の紅葉を
       しめりたる落葉を踏みてわが急ぐ向ひの山に燃ゆるもみぢ葉          (その二)
                                                            <Album3  湯の平温泉入口>へ 

 群馬県 花敷温泉T                吾妻郡中之条町引沼(?)
建立日不明
     先生の
  一途なるさまも
       なみだなれ
    家十
      ばかりなる
     村の学校に


        牧水

   生須を過ぎ、「ずつと一本だけ続いて来た野中の 路が不意に二つに分れる処に来た。小さな道標が 立てゝある。曰く、右沢渡温泉道、左花敷温泉  道。」しばらくは沢渡への道をたどりながら、3〜4年 前「高い崖の真下の岩のくぼみに湧き、草津と違つ て湯が澄み透つて居る故に、その崖に咲く躑躅や  其他の花がみな湯の上に影を落す、まるで底に花 を敷いてゐる様だから花敷温泉といふ」と聞いた、そ の温泉道へと引き返す。
 「然し、途中でやゝこの思ひ立ちの後悔せらるゝほ ど路は遠かつた。(略)引沼村といふのには小学校が あり、山蔭のもう日も暮れた地面を踏み鳴らしながら一人の年寄つた先生が二十人ほどの生徒に体操を教へてゐた。
       先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の学校に
       ひたひたと土踏み鳴らし真裸足に先生は教ふその体操を
       先生の頭の禿もたふとけれ此処に死なむと教ふるならめ


     樫鳥が
  踏みこぼす
        紅葉
      くれなゐに
    透きこそ
        散り来
     わが見て
          あれば

             牧水
  「遙か真下に白々とした谷の瀬々を見下しながら なほ急いでゐると、漸くそれらしい二三軒の家を谷 の向岸に見出だした。こゞしい岩山の根に貼り着け られた様に小さな家が並んでゐるのである。
  崖を降り橋を渡り一軒の湯宿に入つて先づ湯を 訊くと、庭さきを流れてゐる渓流の川下の方を指ざ しながら、川向うの山の蔭に在るといふ。(略)ひたひ たと瀬につきさうな危い板橋を渡つてみると、なるほ ど其処の切りそいだ様な崖の根に湯が湛へてゐた。 相並んで二箇所に湧いてゐる。一つは茅葺の屋根 があり、一方には何も無い。(略)
  渓向うもそゝり立つた岩の崖、うしろを仰げば更に 胆も冷ゆべき断崖がのしかゝつてゐる。崖から真横にいろいろ灌木が枝を張つて生ひ出で、大方散りつくした紅葉がなほ僅かにその小枝に名残をとゞめてゐる。それが一ひら二ひらと断間なく我等の上に散つて来る。見れば其処に一二羽の樫鳥が遊んでゐるのであつた。
       真裸体になるとはしつつ覚束な此処の温泉に屋根の無ければ
       樫鳥が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り来わが見てあれば
       二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫鳥ゐたりその紅葉の木に


 群馬県 花敷温泉 関晴館本館          吾妻郡中之条町大字入山1530
平成12年(2000)1月除幕
       ひと夜寝て
      わかたち出つる
              山蔭の
      温泉の村に
         雪降りにけり
            牧水

         大正十一年十月十九日
            関晴館に泊る


 20日「未明に起き、洋燈の下で朝食をとり、まだ足もとのうす暗いうちに其処を立ち出でた。驚いたのは、その足もとに斑らに雪の落ちてゐることであつた。(略)遠くを見ると、漸く朝の光のさしそめたをちこちの峰から峰が真白に輝いてゐる。
       ひと夜寝てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり
       上野と越後の国のさかひなる峰の高きに雪降りにけり
       はだらかに雪の見ゆるは檜の森の黒木の山に降れる故にぞ

 関晴館本館は明治34年(1901)に創業したが、平成20年(2008)8月31日をもって閉館。花敷温泉の奥尻焼温泉に昭和元年(1926)開業の関晴館別館が22年(2010)関晴館として営業している。


 群馬県中之条町 牧場付近(牧水コース入口)    吾妻郡中之条町
昭和53年(1978)10月20日除幕<77>
               牧水

   夕日さす枯野が原乃ひとつ路

     わがいそぐ路に散れる栗実



   音さやぐ落葉乃下に散りてをる

     この栗乃実の色のよろしさ

                   中澤勝磨書


 花敷へとコースを変えた道中ー「今までよりは嶮しい野路の登りとなつてゐた。立枯の楢がつゞき、をりをり栗の木も混つて毬と共に笑みわれたその実を根がたに落してゐた。
       夕日さす枯野が原のひとつ路わが急ぐ路に散れる栗の実
       音さやぐ落葉が下に散りてをるこの栗の実の色のよろしさ
       柴栗の柴の枯葉のなかばだに如かぬちひさき栗の味よさ
                                                               <Album3 牧場付近>へ 

 群馬県 暮坂峠詩碑                          吾妻郡中之条町
昭和32年(1957)10月20日除幕<21>
         枯野の旅   若山牧水

     乾きたる
     落葉の中に栗の実を
     湿りたる
     朽葉がしたに橡の実を
     とりどりに
     拾ふともなく拾ひもちて
     今日の山路を越えて来ぬ

     長かりし今日の山路
     楽しかりしけふの山路
     残りたる紅葉は照りて
     餌に餓うる鷹もぞ啼きし

     上野の草津の湯より
     沢渡の湯に越ゆる道
     名も寂し暮坂峠




       上州の山川を深く愛した歌人若山牧水は
         大正十一年十月十九日、草津から小雨
         を経て沢渡に向ったが、途中花敷温泉に
         下って一泊、翌二十日、この峠を越えて
         この長詩を残した。 



 牧水唯一の詩碑であり、おそらく最も大きなモニュメント。上の牧水像は昭和62年(1987)に作り替えられ、元の像は中之条町歴史民俗資料館に展示されているという。詩は随筆集『樹木とその葉』に収められている。

 牧水の旅がもとになって、今このルートは「日本ロマンチック街道」と呼ばれ、毎年10月20日には碑の前で「牧水まつり」が行われている。しかし牧水自身は、「昨日の通りに路を急いでやがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打続いた暮坂峠の大きな沢に出た。峠を越えて約三里、正午近く沢渡温泉に着き、正栄館といふのゝ三階に上つた。」(『みなかみ紀行』)と、ほとんど素通り状態。歌も残されていない。標高1088m、前夜泊まった花敷温泉を足下の暗いうちに出発した時ははだらに雪が積もっていたというから、先を急いだか。

 牧水は「河の水上といふものに不思議な愛着を感ずる癖を持つてゐる。」(「みなかみ紀行」)と書き、大正7年(1918)11月には「ひとつ利根川のみなかみを尋ねて見ようと」水上温泉から湯桧曽まで遡り、さらには関東の耶馬溪と言われる吾妻渓谷などを回っている。この「みなかみ紀行」の旅も、「片品川の奥に分け入らうと云ふのは実は今度の旅の眼目であつた」と言っている。7年の旅の歌は第13歌集『くろ土』に「みなかみへ」と題して159首収められ、まさに「みなかみ」への憧れが強く表れている。 
                                                                 <Album3  暮坂峠>へ

 群馬県中之条町大岩 牧水会館         吾妻郡中之条町大字上沢渡3405
   昭和50年(1975)10月20日除幕<71>

       大岩村にて
          大正十一年十月二十日

             若山牧水

     人過ぐと生徒等はみな
     走せ寄りて垣よりぞ見
     る学校の庭の


     われもまたかかりき村
     の学校にこの子等のご
     と通る人見き
                                                  
歌人若山牧水は大正十一年十月二十日
花敷温泉から暮坂峠を経て沢渡温泉への
途中大岩村にてこの二首を残した   
いまここに同窓相はかりてこの碑を建てる
        昭和五十年十月二十日
         牧水歌碑建設委員会
                  会長  町田浩蔵
                  石匠  岡田嘉一

 明治12年(1879)村中の人々が協力して建て、昭和29年(1954)新校舎ができるまで地域の学校として使われてきた旧大岩学校(建築当初の姿で現存する貴重な建物として中之条町の重要文化財に指定)。新校舎へ移転の際に「保存を目的として、牧水の通行にあやかり『牧水会館』と命名され、以後大岩の人々の集会所として現在に至っている」と説明板にある。

 「みなかみ紀行」には大岩地区の記述がなく、小雨第一小学校歌碑の欄に記したように、『山桜の歌』に2首収められている。
       人過ぐと生徒等はみな走せ寄りて垣よりぞ見る学校の庭の
       われもまたかかりき村の学校にこの子等のごと通る人見き
                                                                 <Album3  牧水会館>へ

 群馬県中之条町四万                                吾妻郡中之条町四万湯原
昭和51年(1976)10月21日除幕<72>
     四万湯原村にて
      大正十一年十月二十日

               牧水
      小学校
      けふ日曜に
      ありにけり
      桜のもみぢ
      ただに
         散りゐて
歌人若山牧水は、花敷温泉より暮坂峠沢渡を経て
四万温泉へ向う途中この歌を作った
同志相計りて旧第三分校敷地内に歌碑を建立する
             昭和五十一年十月二十一日
               牧水歌碑建設委員会
                        会長  町田浩蔵
                        石匠  岡田嘉一


 四万湯原牧水歌碑は昭和五十一年十月二一日
牧水歌碑建設委員会によって旧沢田小学校第三分
校の敷地内に建設された このたび国道第三五三号
の改良工事に伴ない現在地に移転した
             平成九年九月十七日
                      牧水歌碑保存会
                    会長  町田浩蔵




 沢渡温泉に正午近く着いた牧水たちは、温泉を浴び昼食をとった後、四万温泉へと出発する。しかし「此処で順序として四万温泉の事を書かねばならぬ事を不快におもふ。いかにも不快な印象を其処の温泉宿から受けたからである。」と記す。「一泊者のせゐのみではなかつたのだよ。懐中を踏まれた」故の粗末な扱いであった。「近頃よく四万々々といふ様になつたものだから四万先生すつかり草津伊香保と肩を並べ得たつもりになつて鼻息が荒い傾向があるのだらうと思ふ、謂はゞ一種の成金気分だネ。」とまで言っている。

 この歌は、その四万温泉に着く前のことで、これも「みなかみ紀行」には述べられていない。『山桜の歌』に「四万湯原村」として1首。
       小学校けふ日曜にありにけり桜のもみぢただに散りゐて

 しかし、10月20日は金曜日で、歌の内容と合致しない。大悟法氏によると、『山桜の歌』編集に際して、後述の永井村での作と入れちがえたものであろうという。
                                                             <Album3  四万湯原>へ

 群馬県 三国路与謝野晶子紀行文学館前    利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉1175
平成元年(1989)10月22日(?)
       みなかみ
         大正十一年十月二十二日
               牧水

   私は河の水上といふものに不
  思議な愛着を感ずる癖を持つて
  ゐる
   一つの流に沿うて次第にその
  つめまで登る
   そして峠を越せば其處にまた
  一つの新しい水源があつて小さ
  な瀬を作りながら流れ出してゐ
  る、といふ風な處に出會ふと、
  胸の苦しくなる様な歓びを覚え
  るのが常であつた
  
               牧水長子旅人識之
 21日中之条から渋川へ出て、東京へ戻る門林と別れ、沼田泊。宿に訪ねてきた牛口
善衛という創作社社友と、翌日法師温泉に向かう。途中「『猿ヶ京村』といふ不思議な名の部落」にやはり社友の松井太三郎を訪ね、彼も誘って一緒に法師温泉へ向かっている。

 猿ヶ京は古く笹の湯と湯島温泉という2つの温泉場であったが、昭和33年(1958)ダム工事で現在地に移転し猿ヶ京温泉と称するようになったとか。牧水は法師温泉からの帰り、「猿ヶ京村を出外れた道下の笹の湯温泉で昼食をとつた。相迫つた断崖の片側の中腹に在る一軒家で、その二階から斜め真上に相生橋が仰がれた。」笹の湯温泉の一軒宿は相生館。
 文学碑は、猿ヶ京ホテルの女将が館長である「三国路与謝野晶子紀行文学館 椿山房」(平成13年「三国路紀行文学館」から晶子専門文学館として改称)前に、向かって左「若山牧水文学碑」右側に「みなかみ紀行」の一節を刻んだ石碑という形で建てられている。近くには「歌碑の道」があり、そこにも「みなかみ紀行」の一節を刻んだ紀行文碑があるという。                                  
                                                         <Album3  三国路紀行文学館>へ

 群馬県 永井宿郷土資料館            利根郡みなかみ町永井452-1
昭和54年(1979)3月29日除幕<82>
     「山村所々」のうち
               永井村

           若山牧水

     山かげは
     日暮はやきに
       学校の
     まだ終らぬか 
     本読む声す

       大正十一年十月二十二日
            歌集「山桜の歌」より
歌人牧水は「みなかみ紀行」
の旅の途中、沼田から法師
温泉に向うとき、ここでこの歌
を作った。永井分校閉校に際
しこの碑を建てて記念する
 昭和五十四年三月二十九日
     新治村養育委員会
   牧水歌碑建設委員会

 永井に関しては『山桜の歌』の1首だけで、他の記述はない。
       山かげは日暮はやきに学校のまだ終らぬか本読む声す

 猿ヶ京の松井の家を出たのは「午後三時をすぎてゐた。法師まではなほ三里、よほどこれから急がねばならぬ。」「小走りに走つて急いだのであつたが、終に全く暮れてしまつ」てから法師温泉に到着。翌朝「うす闇の残つてゐる午前五時、昨夜の草鞋のまだ湿つてゐるのを穿きしめてその渓間の湯の宿を立ち出で」同じ道を戻る。しかも22日は日曜日であった。ということで、大悟法氏はこの歌は四万湯原での作と言っている。  
                                                          <Album3 永井宿郷土資料館>へ 

 群馬県 老神温泉                  沼田市利根町老神 牧水橋西側
昭和61年(1986)3月除幕(?)
    かみつけの

      とねの郡の老神の

    時雨ふる朝を

      別れゆくなり

           牧水詠 旅人書
















 23日湯宿温泉、24日沼田でそれぞれ1泊した後、老神温泉へ向かう。生方吉次という青年が同行した。そして26日「起きて見ると、ひどい日和になつてゐた。(略)止むなく滞在ときめて漸くいゝ気持に酔ひかけて来ると、急に雨戸の隙が明るくなつた。『オヤオヤ、晴れますよ。』さう言ふとKー君は飛び出して番傘を買つて来た。」
 その番傘に即興的に書き付けられたのが次の2首。「Kー君」というのが生方吉次。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    吉次君に寄す
       かみつけの/とねの郡の/老神の/時雨ふる/朝を別れ/ゆくなり
                     大正十一年十月廿六日/旅人牧水

                                                                            酔牧
                                                       なほ書きつげる一首
                                           相別れ/われは東に/君は西に/わかれてのちも/飲まむとぞ/おもふ
                                      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                                                             
             酔牧

    なほ書きつげる一首 

     相別れ
        われは東に
        君は西に
       わかれてのちも
      飲まむとぞ
     おもふ

昭和61年6月建立(?)

 この番傘のレプリカは沼津の牧水記念館に展示されている。沼田の舒林寺にも番傘をかたどった歌碑が、牧水生誕百年記念として昭和61年(1986)10月20日建立されたという。

 現在「牧水ゆかりの宿」をうたう「白壁の宿 牧水苑」は、「みなかみ紀行」に「宿に入つて湯を訊くと、少し離れてゐてお気の毒ですが、と言ひながら、背の高い老爺が提灯持つて先に立つた。どの宿にも内湯は無いと聞いてゐたので、何の気もなくその後に従つて戸外へ出たが、これはまた花敷温泉とも異つたたいへんな処へ湯が湧いてゐるのであつた。手放しでは降りることも出来ぬ嶮しい崖の岩坂路を、幾度か折れ曲つて辛うじて川原へ出た。そしてまた石の荒い川原を辿る。その中州の様になつた川原の中に低い板屋根を設けて、その下に湧いてゐるのだ。」とある「背の高い老爺」のひ孫が女将をしているとか。 
                                                                     <Album3  老神温泉>へ

 群馬県沼田市 栗生トンネル入口        沼田市白沢町高平
昭和61年(1986)10月20日除幕
             酔牧

    なほ書きつげる一首 

     相別れ
        われは東に
        君は西に
       わかれてのちも
      飲まむとぞ
     おもふ




 沼田から老神温泉へ「路はずつと片品川の岸に沿うた。これは実は旧道であるのださうだが、故らに私はこれを撰んだのであつた。」という道をたどっている。一方栗生トンネルは林道赤倉栗生線にあり、牧水が通った道とはおそらく違っているものと思われる。なぜここに歌碑があるのかは不明。ネットで「栗生トンネル」を検索すると、「群馬県で有数の心霊スポット」とあるが。 
                                                             <Album3  栗生トンネル>へ

 群馬県片品村 白根魚苑             利根郡片品村東小川4653
昭和45年(1970)6月除幕<57>
        時知らず

      此処に生ひたち

           枝張れる

      老木を見れば

      なつかしきかも

        大正十一年廿七日
            此処に立ちて  牧水


 26日生方と別れた牧水は、丸沼の鱒養殖の番小屋に泊めてもらうため東小川村の千明家を訪れ、その日は白根温泉に泊まる。そして翌日、丸沼へと向かうのであるが、歌はその途中でのもの。白根魚苑は千明家が経営し、ニジマスなど100万尾の魚を養殖等している「奥日光のファミリーランド」というのが現在に謳い文句であるようだが、そこの樹齢800年をこえるタチヤナギの下に歌碑がある。文字は牧水の種々の筆蹟から集めたという。

 『山桜の歌』には、「上野の国より下野の国へ越えむとて片品川の水源林を過ぐ。」として10首。
       下草の笹のしげみの光りゐてならび寒けき冬木立かも
       時知らず此処に生ひ立ち鋼なす老木をみればなつかしきかも
       聳ゆるは樅栂の木の古りはてし黒木の山ぞ墨色にみゆ

 28日、番小屋の老人と金精峠を越えて湯元温泉へと向かう途中、「端なく私は路ばたに茂る何やらの青い草むらを噴きあげてむくむくと湧き出てゐる水を見た。老番人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だといふ。それを聞くと私は思はず躍り上つた。それらの沼の水源と云へば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。/ばしゃばしゃと私はその中へ踏みこんで行つた。そして切れる様に冷たいその水を掬み返し掬み返し幾度となく掌に掬んで、手を洗ひ、頭を洗ひ、やがて腹のふくるゝまでに貪り飲んだ。」その後、金精峠の頂上で番人と別れ湯元へ下るところで「みなかみ紀行」は閉じられている。

                                       <群馬県A>へ                 <Album3  白根魚苑>へ