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牧水ー碑の詩

関東1 (埼玉県・千葉県)

                                                        <Album1 埼玉>へ   <Album1 千葉>へ


 埼玉県所沢市神米金 若山信市宅      所沢市神米金278
昭和53年(1978)11月8日除幕<80>
               牧水

     のむ湯にも

       焚火の煙

          匂ひたる

       山家の冬の

        ゆふげなりけり


医師若山健海は文化八年この地に生まれ、嘉永
二年長崎に種痘の伝わるや率先して蘭人モーニ
ッケに学び、その普及に尽くした西洋医術伝来史
上の輝かしい先覚者。その孫として宮崎県東郷村
坪谷に生まれた牧水は、中学時代から短歌に志し
上京早稲田大学に入るにおよんで、祖父の生家を
なつかしみ数回ここに訪れ、のち大成して万人に
愛誦される幾多の名歌を遺した。(大悟法利雄識)
      昭和五十三年十一月吉日
             若山牧水の歌碑を建てる会






  大悟法氏によれば、若山家の遠祖は「若山主計」という甲斐武田氏の家臣(喜志子夫人の実家太田家の祖も同じく武田氏家臣だったとか)で、武田家滅亡の折姫君を助けて武州へ落ち延びてきたものという。そして健海の4代前から分家してこの土地に移り住み、名主のもと代々「組長」として新田開拓に従事するとともに、健海の曾祖父は医師にして書道指南の記録もあって、単なる農家ではなく医師・文筆に縁の深い家柄であった。(家の裏手が村の鎮守八雲神社であるというのも、若山家の位置を示しているように思われる。)

 牧水の祖父健海は、父親が2歳たらずの時に死亡、母も間もなく他家に嫁してしまう。そんな関係もあってか「幼時から江戸に出て両国の生薬屋に奉公」(牧水『おもひでの記』)さらには「身延山詣でと称して自宅を出で」(同上)長崎に渡って西洋医学を学び、26歳の時に宮崎は坪谷に医院を開く。その後種痘の法を学び実施、出奔後再び故郷に帰ることはなかった。しかし明治10年の西南の役に官軍の一隊が健海の家に宿泊、中に健海の生家に近い人があって、それがきっかけで消息が交わされることとなった。「彼は極めて謹厳で酒を嗜まず、頗る文字を愛し、殊に漢籍を好み、自ら漢詩を作っていた」(『若山牧水伝』)ちなみに、牧水の酒好きは祖母カメ・父立蔵・母マキの血を引くもののようだ。

 歌は第12歌集『渓谷集』に、「秩父の秋  十一月のなかば、打続きたる好晴に乗じ秩父なる山より渓を歴巡る、その時の歌。」として96首収められているうちの1首。大正6年(1917)のことである。
       夕餉にと鹹鮭焼ける杉の葉のにほひ寒けき渓ぞひの宿
       厨にて焚ける杉の葉板戸漏り煙りきたりて涙をさそふ
       飲む湯にも焚火のけむり匂ひたる山家の冬の夕餉なりけり

 この碑の建立については、昭和35・36年頃所沢市長や郷土史家などが若山家8代目諏訪太郎氏の協力を得て屋敷内に建立する運びであったが、関係者の相次ぐ物故で途絶。それが牧水没後50年の昭和53年に健海と牧水の顕彰の碑を建設する運動が改めてもちあがり、若山牧水の歌碑を建てる会が結成されて竣工をみたとの案内板がある。                                                                             <Album1 若山邸>へ


 埼玉県長瀞町 長生館            秩父郡長瀞町長瀞449
昭和41年(1966)11月3日除幕<48>
     長瀞長生館にて

    溪の音

      遠く澄み
           ゐて

         春の夜の

    あけやらぬ庭尓

      うくひ須の
            なく

         牧水

      若山牧水紀行の一節       
             大正九年四月記  
起き上つて縁側に出て見ると矢張晴れてゐた
まだ日の光のとほらぬ青空に風の出るらしい雲
が片寄つて浮んではゐるが實に久しぶりに見る
爽かさである少し寒いのを我慢して立つてゐる
と何處で啼くのか實にいろ\/な鳥が啼いて
ゐる
      昭和四十一年秋   無門書  
                   福翁彫


 「桜の咲かうといふ季節に、実に根気よく今年は雨が降り続いた。つくづくそれに飽き果てた末、何処でもいいから何処か冷たアいところへ行きたい、さう思ひ」「兎も角も東京を離れて見度い」(「溪より溪へ」)思いで秩父を訪れたのは大正9年(1920)4月のこと。

 第13歌集『くろ土』に「秩父の春」として39首収められたその詞書が、この旅の概要を語っている。
   四月六日、秩父の春を見て来むとて出で立つ、熊谷駅乗換秩父線に移る。 (7首)
   その夜秩父長瀞なる渓谷の宿に泊る、明くれば数日来の雨全く晴れて鶯頻りに啼く。 (6首)
   秩父町にて少憩、其処より表秩父に出でむとして妻坂峠を越ゆ、思ひの外の難路なり。 (9首)
   辛く峠に出で嶮しきをやや下りゆけばまたひとつの渓に沿ひたり、名栗川の上流なり。 (5首)
   一夜を小さき鉱泉宿に過し翌日名栗川に沿うて飯能町に出づ、川小さけれど岩清く水澄みたり。 (12首)

       乗換の汽車を待つとて出でて見つ熊谷土堤のつぼみ桜を   (四月六日・・・ 熊谷駅附近)
       雨ぐもり重き蕾の咲くとしてあからみなびく土堤の桜は
       渓の音ちかく澄みゐて春の夜の明けやらぬ庭にうぐひすの啼く  (その夜・・・)
       部屋にゐて見やる庭木の木がくれに溪おほらかに流れたるかな
       朝あがりしめれる庭にたけひくき若木の梅の花散らしたり

 歌碑の裏面に一節が刻まれた紀行文「溪より溪へ」には「宝登山駅に着くと私は汽車を降りた。そして車中で聞いて来た渓端の宿長生館といふに行く。芸者なども置いてある料理屋兼旅館といふので多少心配して来たのであつたが、部屋に通されて見ると意外にもひつそりしてゐる。障子をあけると疎らな庭木立をとほして直ぐ渓が見えた。」とあるが、歌の第二句は歌碑と同じ「とほく澄みゐて」になっている。歌碑の筆蹟は喜志子夫人。

 長生館の創業は大正4年(1915)。秩父の絹織物と武甲山の石灰石を運ぶために鉄道が敷設され長瀞観光も緒についた時期という。現在の建物は昭和58年(1983)に一新されたと長生館HPにあるが、その中に「大正14年に若山牧水が長生館に宿泊し短歌を残しました」というのは誤りであろう。
 なお、長瀞の景については「此処がいはゆる秩父の赤壁とか長瀞とか耶馬溪とか呼ばれてゐる所なのである。唯だ通りがかりに見るには一寸眼をひく場所だが、そんな名称を付せられて見るとまるで子供だましとしか感ぜられない。」(「溪より溪へ」)と手厳しい。

 次の羊山公園・飯能市民会館歌碑の歌も、同じく「秩父の春」所収で、この後に続くものである。                              <Album1 長生館>へ


 埼玉県秩父市 羊山公園           秩父市熊木町 羊山公園
昭和31年(1956)1月15日除幕<17>
        牧水詠

     秩父町

       出はづれ来れば

          機をりの

      うた聲つづく

          古りし家並に

         昭和三十年初秋
                   喜志子書
 
 長生館の歌に続く、『くろ土』「秩父の春」中「秩父町にて少憩、其処より表秩父に出でむとして妻坂峠を越ゆ、思ひの外の難路なり。」の1首。
       秩父町出はづれ来れば機織の唄ごゑつづく古りし家並に
       朝晴のいつかくもりて天雲の峰に垂りつつ蛙鳴くなり
       つぎつぎに継ぎて落ちたぎち杉山のながき峡間を落つる溪見ゆ
       菅山のいただき近く枯菅の枯れなびくところ岩が根の見ゆ

 「溪より溪へ」によれば、4月7日はまず汽車で秩父町へ出る。ちょうど馬車もあったが、「今日は私は歩き度かつた」「いろいろ考へた末、道も細く山も険しいといふ妻坂峠を越えて名栗川の方へ出る事に決心」して7里の道を歩き出す。付近第一の高山武甲山の頂上までもと思うものの、「此頃あまり元気でもない身体」で断念。峠も険しく「履いて来た日和下駄をぬいで、跣足になりながら這ふ様にして登る。」下りにはいると思いがけない道連れもできて、割に早く麓の村に着く。それでも鉱泉旅館名栗館に宿ったのは午後7時。「その時はもう階子段を上るにも手離しでは登り得ぬ程疲れてゐた。」とある。

 この歌碑は昭和31年に市内本町の織物組合の前に建立されたが、その後何回か移転され、現在地に移転除幕されたのは昭和54年(1979)9月28日という。公園内には人工の「牧水の滝」もある。                                        <Album1 羊山公園>へ


 埼玉県飯能市 市民会館           飯能市飯能226-2
昭和36年(1961)6月10日除幕<30>
     志ら\/と

       流れて遠き

           杉山の

         峡のあさ瀬尓

          河鹿鳴く
              な里

             喜志子書

牧水歌碑
大正九年に飯能を
訪れたとき詠まれた歌

  同じく『くろ土』「秩父の春」中「一夜を小さき鉱泉宿に過し翌日名栗川に沿うて飯能町に出づ、川小さけれど岩清く水澄みたり。」の歌。
       わかし湯のラヂウムの湯はこちたくもよごれてぬるし窓に梅咲き
       溪ばたの老木の梅は荒き瀬のとびとびの岩に散りたまりたり
       しらじらと流れてとほき杉山の峡の浅瀬に河鹿なくなり
       ところどころ枯草のこる春の日の溪の岩原に鶺鴒の啼く
       蛙鳴く田なかの道をはせちがふ自転車の鈴なりひびくかな

 4月8日、峠を越えて多摩川上流に出ようという予定は疲れと足痛のためとりやめ、一日休んで明日飯能に向かおうと決めたものの、昼頃から宿に村人が大勢集まってきて騒ぐのに耐えきれず、また予定を早めて飯能まで歩き、終列車で帰宅する。

 そもそもは国民宿舎覧山荘の前庭に建立されたが、その後隣接地に市民会館ができ現在地に移されたという。   <Album1 飯能市民会館>へ


 埼玉県飯能市 名栗温泉大松閣      飯能市大字下名栗917
平成2年(1990)10月除幕

     ちろちろと岩つたふ水に

          這ひあそぶ

         赤き蟹ゐて杉の山静か

 歌を愛し酒を愛し旅を愛した、純朴な最も歌人らし
い歌人として広く親しまれているのが若山牧水であ
る。牧水は明治十八年(一八八五年)に宮崎県の
山村に生まれ、昭和三年(一九二八年)に四十四
歳で静岡県沼津に歿した。早稲田大学英文科卒。
尾上柴舟の門下。旅を愛し自然に親しみ牧水調と
いわれる歌風を築き、自然主義歌人として活躍し
た。「海の声」「別離」「渓谷集」など十五冊の歌集
に総計六千八百九十八首が収められている。
 各地を遍歴した牧水は大正年間にしばしば名栗、
秩父を歩き当地名栗温泉にも宿泊し多くの歌を残し
ている。なお牧水の祖父健海は所沢の出身である。
    平成二年十月
            若山牧水の歌碑を建てる会








 所沢の歌碑の歌と同じ『渓谷集』「秩父の秋」の中の1首。
 大正6年(1917)11月12日、長雨の続いたあとあまりによく晴れたので、一泊のつもりで出かけたものの、入間川の渓谷に魅せられ4日間ほど秩父方面を歩く。名栗には14日に宿泊。
 『文章世界』新年号に「渓百首」として発表され、『渓谷集』の中心をなす一連となっている。

       朝雲の散りのかすけさ秋冴えし遠嶺に寄ると見れば消えつつ
       石越ゆる水のまろみを眺めつつこころかなしも秋の溪間に
       ちろちろと岩つたふ水に這ひあそぶ赤き蟹ゐて杉の山静か
       長雨のあとの秋日を忙しみひとの来ぬちふ溪の奥の温泉
       秋の溪温泉とはいへど断崖に滴る引きてやがてわかす湯
       溪おくの温泉の宿の間ごと間ごとひとも居らぬに秋の日させり

 名栗温泉は承久年間(1219〜21)に発見されたと伝えられ、旅館は明治末期に「名栗館」として開業。「大松閣」は大正8年(1919)新たな経営者のもとで創業した。昭和2年(1927)・4年(1929)には与謝野鉄幹・晶子夫妻も訪れているとのこと。
                                                                   <Album1 名栗温泉>へ


 千葉県白浜町 根本海岸            南房総市白浜町根本1148-8 牧水亭向かい 
平成3年(1991)3月4日除幕
     牧水根本海岸にてうたへる


   白鳥は かなしからずや 空の青
   海のあをにも 染まずただよふ


   山を見よ 山に日は照る 海を見よ
   海に日は照る いざ唇を君


   大島の 山のけむりの いつもいつも
   たえずさびしき わが心かな

     若山牧水と根本海岸
 根本海岸は、若山牧水(明治18年
ー昭和3年、1885ー1928)ゆかりの地
である。
 牧水は、明治40年(1907)から42
年(1909)にかけて二度この地を訪れて
いる。
 一度目は、恋人の園田小夜子と熱
愛の時期であり、二度目はその小夜
子との別離の後であった。
 二度の滞在で、約百五十首にのぼ
る歌を残したが、それらの歌は牧水の
代表的な歌集「海の声」、「独り歌へ
る」、「別離」に収められている。
 吟遊詩人、牧水はこの根本海岸で
その才能を開花させたと言っても過言
ではない。

 第3歌集『別離』に「女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ、われその傍らにありて夜も昼も断えず歌ふ。明治四十年早春」所収(76首)。
       ・恋ふる子等かなしき旅に出づる日の船をかこみて海鳥の啼く
       *海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし
        ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひながら死せ果てよいま
        山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君
        君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ
        ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
       *白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
       ・かなしげに星は降るなり恋ふる子等こよひはじめて添寝しにける
       ・渚ちかく白鳥群れて啼ける日の君がかほより寂しきはなし
       ・いかなれば恋のはじめに斯くばかり寂しきことをおもひたまへる

 『別離』は『海の声』・『独り歌へる』という2歌集を合本したものであるが、百数十首の加除がある。上に「・」を付した4首は『別離』に新たに加えられた歌。また、第1歌集『海の声』ではこの根本海岸での作は「以下49首安房にて」としてまとめられており、「*」の2首(海哀し・白鳥)はその中には入っていない。特に「白鳥」の歌は、他述するように明らかに安房行以前の作であるが、「こういう歌を作ったとき、すでに彼は房州の突端に身を置いていたともいえるのであって、旅は歌を追いかける形で始まったのである。」(大岡信『今日も旅ゆく・若山牧水紀行』)

 明治40年(1907)12月20日から大学の冬休みに入った牧水は、27日根本海岸に渡った。「女」園田小枝子(碑文の「小夜子」は誤り)とその従弟とともに。1月4日には友人に宛てて「房州に在ること旬日、海の香雲の姿涛の声、つかれし全身に満ちわたれるを覚ゆ、キンガシンネン!」と書き送っているが、まさに恋の歓喜に溢れている。しかしながら、「ともすれば口無し」になり「寂しきことを」思う「君」。恋につきものの不安といえばそれまでだが、暗示的である。
 園田小枝子(本名「サヱ」)は大変複雑な家庭環境に育った人だった。明治17年(1884)9月17日(奇しくも牧水が亡くなった日に同じ)広島県で生まれる。その小枝子と牧水が初めて遇ったのは明治39年(1906)夏。大学が休みになって帰省した牧水が、日高という友人の失恋談を聞き神戸の相手の家まで談判に及んだ際に、たまたまその家に来合わせていた彼女と巡り会った。そして翌40年春、小枝子は日高の紹介状を持って牧水を訪ね、以後二人は恋に落ちたのであった。根本海岸に滞在した時が、その恋の絶頂期といってもいい。
 しかし、知り合った時既に小枝子は牧水ならぬ人の妻であり、子供もある身であった。牧水は初め、彼女が年上であることも知らなかったという。まして彼女の詳しい身の上も知らないまま、深みにはまって行ったのだった。

 第2歌集『独り歌へる』「一月より二月にかけ安房の渚に在りき、その頃の歌七十五首。」(『別離』では69首)
       思ひ屈し古ぼろ船に魚買の群れとまじりて房州に行く
       物ありて追はるるごとく一人の男きたりぬ海のほとりに
       日は日なりわがさびしさはわがのなり白昼なぎさの砂山に立つ
       いづかたに行くべきわれはここに在りこころ落ち居よわれよ不安よ
       大島の山のけむりのいつもいつもたえずさびしきわがこころかな
       つひにわれ薬に飽きぬ酒こひし身も世もあらず飲みて飲み死なむ
       けふ見ればひとがするゆゑわれもせしをかしくもなき恋なりしかな
       耳もなく目なく口なく手足無きあやしきものとなりはてにけり

 明治42年(1909)1月27日、牧水は再び「安房の渚」に渡る。今度は一人、根本海岸の隣り布良の海岸に。41年7月大学を卒業。処女歌集『海の声』を出版してはいたが、当初出版をもちかけてきた人間が出版業をやめるということで自費出版の形となり、広く世に問おうという期待は挫かれ、新雑誌発行の夢も頓挫する。さらに小枝子との仲も周囲の人から隔てられ、思うように運ばないという状況の中での房州行であった。

 その後も人妻である小枝子と、彼女の従弟との関係、小枝子の妊娠・出産等、諸々の問題が牧水を襲い、地獄の底を這うような苦悩の日々・泥沼の関係が44年(1911)まで続く。「五年来のをんなの一件も、とうとうかたがつくことになつて連れられて郷里へ帰るのだ相だ、それがお互ひの幸福には相違ないがね、いざとなると、矢張り頭がぐらぐらする。」44年3月、友人に宛てた手紙の一節である。
       少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る       『独り歌へる』『別離』
       憫れまれあはれむといふあさましき恋の終りに近づきしかな
       詫びて来よ詫びて来よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき
       海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり       『路上』
       わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな
       はじめより苦しきことに尽きたりし恋もいつしか終らむとする
       一日だにひとつ家にはえも住まず得忘れもせず心くさりぬ
       かなしくもいのちの暗さきはまらばみづから死なむ砒素をわが持つ

 成就しなかった恋が多くの名歌を生んだ。『海の声』『独り歌へる』『別離』、いずれも小枝子との関係を象徴するタイトルとなっている。「彼女との恋愛を抜きにしては牧水の人と芸術とを理解することは出来ない」(『若山牧水新研究』)のである。
 一方、小枝子について、大悟法氏は「結果から見れば牧水を騙し、裏切り、弄んだということになるが、」「純情でひたむきな牧水の思慕にひかれて彼女の方でも牧水を愛したに相違ない」「ただ不思議な運命の手に操られた不幸な女だったと思う。いや、牧水ほどの人にあれだけ愛され、別れてしまった後には平穏な生活に入り、(略)かなり永い一生を過ごした彼女は、世にも幸福な女性だったというべきかも知れない。」と評している。彼女は昭和47年(1972)3月8日東京品川で逝去、享年88歳。羽田空港近くの海岸寺に眠っているという。

 なお、牧水が滞在したのは房総フラワーラインを布良方面から進んだ根本の入口の小高い所で、「浜の小平」の屋号で知られた家だというが、根本海岸は大正12年(1923)の関東大震災でかなり隆起し、牧水が訪れた頃とは様相が違っているとのこと。          <Album1 根本海岸>へ


 千葉県いすみ市 八幡岬           いすみ市大原 城山青年館前
昭和58年(1983)11月30日除幕<96>
       八幡岬にありて
         図らず滿月をみる

    ありがたや今日滿つる月と

            知らざりし

      この大き月 海に

             のぼれり

               牧  水

 歌人若山牧水は 八幡岬をこよなく愛し 大正六年と八
年の二回来訪した この岬にあった旅館帆万千館に止宿
し 大原の歌を七十首以上詠んでいる
 これらの歌は 歌集「溪谷集」「くろ土」に収められている
 牧水は宮崎県に生まれ 尾上柴舟に師事 歌誌「創
作」を主宰酒と旅を愛し 紀行文も多い 昭和三年没した
    昭和五十八年十一月   建立 大  原  町     
                  撰文 大原町文化財保護協会









 大正6年(1917)11月4日間ほど秩父地方を歩き「秩父の秋」100首近くを詠んだ後の27日、大原海岸に出かけ2泊。この歌はその時のものである。
 第12歌集『渓谷集』に「上総の海  十一月末、上総国大原海岸に遊ぶ」として、「途すがら」8首、「きりぎし」4首、「浪の歌」18首、「旅館」7首、「八幡岬に在りて図らず満月を見る」10首、「同じ処にて老漁師より鮪つきの話を聞く」8首の計55首を収める。
       ありがたやけふ満つる月と知らざりしこの大き月海にのぼれり
       断崖の草かきわけて登りたれ思ひきやこの月を見むとは
       断崖の端に立てれば月ひとつわれを照らして海どよもせり
       霜月の満ちぬる月の沖辺より昇り来りてこの海寒し
       うすいろの大あめつちと今を見よひんがしの海に月さしのぼる

 歌碑裏面の撰文にある大正8年(1919)は、12月20日に訪れ数泊している。第13歌集『くろ土』に「上総八幡崎」と題して20首収録されている。
       断崖の岩うちそぎて建てられし宿屋のにはに浪うちあがる     (その一)
       めざめつつ静まりをれば朝日さす海のきらめき部屋を染めたり  (その二)
       ひもすがら冬日さしたるこの部屋に旅のこころか疲れてゐたり   (その三)
       入江なる岩に日のさし浪くだけつばらに見れば雀子のゐる    (その四)
       海人どもの若きたはむれ老いたるは専念に釣る断崖の端に   (その五)

 歌碑の立つ所は戦国時代の城址で、明治末から終戦直後までは牧水の泊まった帆万千館という旅館があったという。多くの文人墨客が訪れたなかで、とりわけ牧水歌碑を当時の町が建立したという点で珍しい歌碑である。筆蹟は土地の書家の手になる。         <Album1 八幡岬>へ


 千葉県 野呂パーキングエリア         千葉市若葉区野呂町1515-7
建立日不明
    八幡岬にありて
      図らず滿月を見る


    ありがたや

     今日滿つる月と知らざりし

   この大き月海にのぼれり

                    牧水


   大原海岸と若山牧水
 ******こよなく愛した牧水      若山牧水
は、**********います。      一八八五(明治十八)年ー一九二八(昭
最初は大正六年、牧水三十二歳の時    和三)年、宮崎県生まれ。延岡中学卒
です。この時には、第一夜を 旭洋        業後、早大英文科に入学する。卒業
館に宿泊し、翌日は八幡岬の突端近     と同時に処女歌集「海の声」を自費
くにあった帆万千館に泊っています。      出版、歌人としての生涯を送る。詩
この時に詠んだ「上総の海」五十五       *********随筆集に「旅と
首は、後に歌集「溪谷集」に収めら        ふる郷」などがある。
れました。
 二度目は大正八年のことです。こ
の時にも帆万千館に泊っています。
宿の窓から太平洋を眺めては、ちび
りちびりと酒を飲む。そんな放浪詩
人が若山牧水だったのです。                            (*は読み取り不能文字)

 千葉東金道路・野呂パーキングエリア(上り側)に設けられた「文学の森」の表示板には、次のようにある。
 温暖な気候、風光明媚な海岸線など豊かな自然環境に恵まれた房総は、昔から多くの作家たちの心を引きつけ、数多くの生み出す舞台となってきました。そこでここ野呂PAに房総ゆかりのある数々の名作、そして作家たちを紹介した碑を設置し、「文学の森」と名づけました。

 碑は9基。 @「上総の勝浦」で愛を歌った       与謝野晶子     A旅を愛し、酒を愛した詩人       若山牧水
        B御宿の砂丘と童謡「月の砂漠」     加藤まさを      C小説「真実一路」の舞台大原海岸  山本有三
        D外房州長者町の人情にふれて      林芙美子       E九十九里、成東町生まれの歌人  伊藤左千夫
        F小説「海のほとり」に描かれた一宮海岸 芥川龍之介     G「宵待草」の舞台、外房の浜辺   竹久夢二
        H千葉県が生んだ童謡作家        齋藤信夫                           <Album1 野呂パーキンク>゙へ


 千葉県野田市 キッコーマン(株)       野田市野田399 研究開発本部
昭和44年(1969)11月14日除幕<54>
      おのづからよろ

      づの味のもとゝ

     なる亀甲萬の

     むらさきぞ濃

     き   牧  水

若山牧水真蹟

昭和二年六月十二日
亀甲萬を讃えて詠む





 詩歌雑誌「詩歌時代」の損失や自宅の購入・建造等による多額の借金返済のため、昭和2年(1927)牧水夫妻は朝鮮半島へ揮毫行脚の旅に出る。5月4日沼津の自宅を出発した夫妻は、16日に釜山上陸、7月12日下関に帰還するまで2ヶ月あまり朝鮮各地を歴遊する。6月7日から13日は京城の市山盛雄宅に滞在した。市山は牧水とともに尾上柴舟に師事、大正8年(1919)には牧水の『創作』に入り、2年当時は野田醤油の京城出張所に勤務していたという。そこで宣伝用として頼まれ、揮毫したもの。
 歌碑は同社の創立50周年記念として建立された。
       おのづからよろづの味のもととなる亀甲萬のむらさきぞ濃き   (「亀甲萬」讃歌)

 趣旨はまったく違うが、商品名が詠まれているものに次の歌がある。
       とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶あふれ出づ     『別離』(『海の声』では、結句「あふれ出る」)   <Album1 野田>へ


 千葉県多古町 市原正夫宅          香取郡多古町多古539-1
 昭和57年(1982)8月29日除幕<94>
  大正十四年八月二十八日多古
  町蔦屋にて         牧水

    は る け く 日 は
    さ し 昇 り 千
   町 田 の た り
   穂 の 露 は
   か ゞ や け る か も


           喜志子
       通り雨
         ふりつよみ
              来て
           端居する
        ゆかたのたもと
          ぬれにける
                かも 
 歌人若山牧水 喜志子夫妻は
大正十四年八月二十四日より こ
の日まで 門下の細野春翠らと 蔦
屋主人 市原翰介 妻ヨ子の接遇
を受けて逗留し この歌を詠み 書
に残す
 当時 蔦屋の離れからは多古の
たんぼが一望のうちにあり
 今 往時をしのび その地に この
比翼の歌碑を建てる
 昭和五十七年八月二十八日
          市 原 正 夫
           書 市原政治
           刻 南 榮司

 大正14年(1925)は新居建築等のための資金集めのため、各地で揮毫頒布会を行っているが、8月には4日  に新居の上棟式をすませた後21日から千葉県に入っている。『創作』10月号の「創作社便」には「廿三日佐倉町に到り、歌会半折会開催。廿四日成田不動に参詣して三里塚を横切り多古町着、細野春翠君の宿蔦屋に落着き、翌日より揮毫にかかり、廿七日同じく歌会半折会を開いた。そして廿八日、東京を素通りして帰宅した。」と記している。

 「蔦屋」というのは市原家の屋号で、当時門下の細野春翠が小学校長としてこの家に下宿していた縁で宿泊したものという。夫妻の歌は、28日の即詠で歌集には載っていない。
 牧水夫妻が4泊したことを誇りとしていた先代夫妻の没後、その志をついで建立したという。歌碑裏面の撰文では8月28日になっているが、翌日が日曜日だったので除幕式は29日に行ったという。
       はるけく日はさし昇り千田町のたり穂の露はかがやけるかも

 市原正夫氏は県立美術館長退職後自宅を開放して「多古美術サロン」を開設(千葉県の私設美術館の先駆けと言われる)。平成22年(2010)、散歩中の事故で90歳の生涯を閉じたという。
                                                                                             <Album1 多古 市原邸>へ