| 秋田市 千秋公園 牧水・旅人父子歌碑 秋田市千秋公園1-4 佐竹史料館前 | |||
平成7年(1995)10月21日・11年(1999)10月16日除幕<173> |
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写真は「父子歌碑」除幕式で献酒する牧水の孫 榎本篁子 (沼津市若山牧水記念館館長)御夫妻。
この歌碑は、2回除幕式が行われている。 1度目は、秋田ライオンズクラブ結成35周年および秋田ライオンズクラブと延岡ライオンズクラブの友好交流締結記念として建立された「牧水歌碑」として。建立のそもそものきっかけになったのは、平成6年(1995)6月秋田市で開催された全国酒造組合中央会の全国大会での秋田市長の歓迎の挨拶だった。「大正6年(1917)来秋の折牧水は一首もなしていないが、これは秋田の酒のおいしさと歓待によるものだろう」という趣旨の挨拶が延岡の観光協会長によって地元に紹介され、ライオンズクラブ同士の交流に発展して建立されたもののようだ。(牧水が「歓待された」様は、紀行文「北国紀行」に詳しい) 2度目は「父子歌碑」として。平成11年は秋田市制施行110周年にあたり、記念事業の一環として「和歌と酒のフェスティバル」が催されたが、その中で除幕式もとりおこなわれた。当日は「日本ほろよい学会」が設立され、以後、「学会」は牧水ゆかりの地や酒どころで毎年開かれている。 牧水の歌は、大正5年(1916)3月に東京を出発し、宮城・岩手・青森・秋田・福島と回った「残雪行」の旅での作で、4月21日に千秋公園で詠まれたもの。第9歌集『朝の歌』には「秋田市千秋公園」の題で 鶸(ヒワ)繍眼児(メジロ)燕山雀(ヤマガラ)啼きしきり桜はいまだ開かざるなり として収められている。「山雀つばめ」が「燕山雀」になっていることに関して、2度の除幕式に参列された佐佐木幸綱氏は「古代歌謡がそうであったように、幾度も口唱しているうちに、異伝が生まれることになったのだ。『燕山雀』が『山雀つばめ』になったのはその一例であろう。牧水の歌の愛唱性の秘密の一端を見た思いがする。」(朝日新聞「詩歌句ノート」)と記している。同時作に 曇さびしいま七日たたば咲かむとふ桜木立の蔭を行き行くに 名に高き秋田美人ぞこれ見よと居ならぶ見れば由々しかりけり (秋田美人) 「秋田美人」という言葉は明治の終わり頃から秋田を訪れた多くの文人が使って定着したものらしいが、牧水はこの翌年8月にもデッサン社というところの歌会に来秋している。そして秋田を離れる6日付の友人宛のハガキに「秋田はなんといつてもきれいな人の巣だ。つくづくさう思ふよ。」と記している。 子息旅人氏の歌は、1度目の除幕式に病気療養のため出席できないということで、当時の秋田市長宛に贈られたもの。「ふかきゑにし」は直接的には牧水の秋田来訪を指しているだろうが、牧水の日記を開くと、もっと以前からの「ゑにし」がうかがえる。 明治35年(1902)といえば牧水は延岡中学3年の時であるが、その3月6日の「来状」の欄に、「保坂平太(秋田市、大町4丁目辻澤方)」という記述がある。「保坂君」の名は、37年(1904)1月13日「保坂平太君より秋田中学の校友会誌」まで都合17回登場している。どのようなきっかけで知り合ったのか知るすべもないが、校友会誌や「秋田日報」という新聞の送付を受け、「僕ノ写真ヲ送ル」といった交流が約2年間続いているのである。まさに「ゑにし」と言うべきであろう。 (朝日新聞平成7年10月) ![]() |
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| <秋田市の三城址>へ |
| 盛岡市 下橋中学校前 啄木・牧水友情の歌碑 盛岡市馬場町1-1 下橋中学校前 | ||
平成9年(1997)5月28日除幕<210> |
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啄木生誕111周年(川寿)を記念して建立されたという。下橋中学校は啄木や金田一京助などの卒業した盛岡高等小学校の後身にあたり、中津川添いにあって、校地内には「その昔 小学校の 柾屋根に 我が投げし 鞠 いかにかなり けん」という啄木歌碑もたっている。 牧水歌碑として210番目、啄木歌碑としては135番目のものという。 牧水の歌は、秋田の歌碑と同じく第9歌集『朝の歌』の「残雪行」に収められたもので、大正5年(1916)3月15日夕盛岡着、20日青森に向かった、その間の作である。「雫石川か中津川か」の詞書がある。 城あとの古石垣にゐもたれて聞くとしもなき瀬の遠音かな その前後には、次のような歌。 啄木鳥の真赤き頭ひつそりと冬木桜に木つつきゐたり (盛岡古城址にて) 啄木鳥ぞ来てとまりたる槙の蔭の落葉桜の真白き幹に ほのぼのと燃ゆる思ひにせんすべの尽きて眺むる梢なりけり 遠山に消えつつ残るはだら雪雨のごときを見る真昼かな (雪やめば四方の山見ゆ) 牧水と啄木が初めて会ったのは明治43年(1910)11月で、牧水・白秋らが浅草に遊んだ帰り偶然に出会い、白秋に紹介されたという。啄木が亡くなる前々年のことで、直接的な交友の期間は長くないが、『創作』等への原稿を依頼したり、土岐善麿を介して啄木の『悲しき玩具』出版に尽力するなど才能を認め合った仲であった。そして、明治45年(1912)4月13日、牧水は啄木の臨終に彼の家族とともに唯一立ち会い、医者・郵便局・警察・区役所・葬儀社・買い物と、一人奔走している。「石川啄木君今朝九時三十分に不帰の客となれり、枕頭には彼の父、妻、娘及び小生、寂しいとも寂しい臨終であった。自然初号を啄木追悼号としやうぢァないか」と、啄木没後2時間前後に郵便局で友人に宛てて走り書きした牧水の葉書が、今は盛岡の「てがみ館」に保管されているとのことだが、残念ながら展示はされていなかった。 初夏の曇りの底に桜咲き居りおとろへはてて君死ににけり 『死か芸術か』(四月十三日午前九時、石川啄木君死す。) 君が娘は庭のかたへの八重桜散りしを拾ひうつつとも無し |
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| <啄木と賢治>へ |
| 盛岡市 綱取ダム湖畔 盛岡市浅岸字綱取 綱取大橋脇 | ||
昭和54年(1979)12月1日除幕<85> |
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盛岡市の中央部を東西に流れる中津川の、市街地から約6q上流にある綱取ダム。そのダムの綱取大橋を渡った右側に、まさに木の間を縫って青い湖水を背にした歌碑がひっそり立っている。この歌碑は、ダム建設を記念して、建設事務所および工事に参加した企業によって建立されたという変わり種で、当時のダム建設事務所長が初めは地元の啄木の歌を探したが適当なものが見つからず、若いときに読んだ牧水の歌を思い出して選歌したという。 この歌は第1歌集『海の声』に収められている。 山恋しその山すその秋の樹の樹の間を縫へる青き水はた 『海の声』は明治41年(1908)7月に出版された。そもそもは歌集出版の依頼があってまとめられたものだが、大学の卒業試験が始まり1回目の校正刷ができあがってきた後で依頼人が出版業を廃し、やむなく金策に奔走してやっと自費出版したのだった。第2歌集『独り歌へる』(43年)も名古屋の八少女会という所から出されたが、出版部数がごくわずかで、自己の真価を世に問おうという牧水にとっては、不満足な結果だった。そこで、第3歌集『別離』は『海の声』と『独り歌へる』の歌に134首を加えて(前2集から除かれたもの156首)刊行された。当該歌は『別離』からは除かれており、この歌を選んだ人はよほど牧水を読み込んでいたものと思われる。 この歌の前後は 風凪ぎぬ松と落葉の木の叢のなかなるわが家いざ君よ寝む 青海の底の寂しさ去にし日の古びし恋の影恋ひわたる 直前の7首は『詩人』41年新年号に発表された一連で、『別離』上巻の巻末に収められている。「山恋し」「青海の」は『海の声』のみに見られる。 |
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| <啄木と賢治>へ |
| 北上市 臥牛農業担い手センター 北上市臥牛11地割48 | |||
平成4年(1992)4月26日除幕 |
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大正十五年十一月二十九日盛岡より花巻千秋閣へ 歌会なしでゆっくり一献 関登久也氏が見えられた 翌三十日 晴 電車で花巻まで大木まではハイヤー、徒歩で手出し峠を越える先生の服装は和服に草靴ばきである、途中峠で石に腰をおろし藤村の酒の美味を賞され喜志子夫人は啄木鳥の木々の枝をとび交う様に驚かれていた 昼近く私の家に着いた 先生はしきりに家の周囲の杉の大木を見ていた 厳然と威張っているような杉の木は好きでなかったが君の古家をとりまく杉の叢立つ様を見ていると実に静かな気持になったとしきりに懐しんでいられた 部屋は常居(ジョウイ)の古い広間である 早速酒粕漬の鮎を出すと大囲炉裡に自ら薪をたき焼いて静かに酒を親しまれた 薪の燃える炎を見つめ火なんて不思議だと感じ入っておられた 夜は学校の先生方が見えられ小宴を催した 先生は本場の木曽節藤村の寂寥(詩)啄木の慕郷など牧水調で朗詠された 夫人は傍で涙ぐんでおられた 翌十二月一日時を惜しみながらも花巻に向った 大正十五年十二月 胡茄(房志)記 大正15年(1926)9月21日沼津の自宅を出発した牧水は、福島・盛岡・青森を経て24日北海道に渡る。以後1ヵ月ほど北海道揮毫行脚を続け11月23日再び青森に宿った後、盛岡・福島・三春等を巡って12月6日沼津に戻るのであるが、その帰路に立ち寄ったのが福地房志宅であった。 大正6年(1917)8月19日の福地宛書簡に「三日にこちらを立ち秋田まで行きました、帰りに盛岡へ出て、そしてあなたの村をお訪ねするつもりでゐたのでした、そして、お話にきいてゐる渓谷の村をいろいろに想像してゐたのでした、ところが妙なはずみから秋田より新庄に返り、そこから最上川を下つて酒田に出で、そこからまた船に乗つて新潟まで行つてしまひました、斯くして、その想像の村を見るの機はまた暫く延びることになつてしまひました、でも近いうちに屹度実行します、それを楽しんでゐるのです」とあり、9年ぶりに約束を実行したものであろう。手紙は「昨日小包が届きました、(略)魚は幸に無事で、香味ともにまだ鮮かなものでした、昨夜独りして遅くまで煮たり焼いたりして酒をのみました」と続いており、「早速酒粕漬の鮎を出」しているのも、「しらたまの・・・」歌を揮毫しているのも、二人の関係をよく示している気がする。 「酒仙牧水」の代表作は、第4歌集『路上』「九月初めより十一月半ばまで信濃国浅間山の麓に遊べり、歌九十六首」中に、 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ の形で収められている。それが大正5年(1916)11月発行の自選歌集『若山牧水集』で次のように改められた。 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり 明治43年(1910)、牧水25歳の時の歌である。(詳細は小諸懐古園の歌碑参照) 北上市のホームページによると、妻喜志子の歌「ひとりゐは朝こそよけれわか竹の霧ふりこぼす風にふかれて」も刻まれた夫婦歌碑になっているとあり、歌碑の傍らの掲示板にも喜志子および子息旅人の色紙コピーらしきものが貼られている。確かに、歌碑左半分に一首ありそうなスペースはあるが、残念ながら歌を確認することはできなかった。 |
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| <北上Album>へ |
| 北上市 北上駅西口 北上市大通り1丁目1-34 ホテルメッツ前 | ||
平成3年(1991)5月11日除幕 |
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![]() きたかみ文学散歩 若山牧水歌碑 大正15年、若山牧水が北海道から東北へ揮毫旅行の際、訪れた北上市更木臥牛の福地宅にて揮毫した歌 この歌碑はよく知られている「幾山河・・・」ではなく、その時の直筆「幾山川・・・」を刻んだものである。 平成元年(1989)全国の市町村に一律1億円が交付された「ふるさと創生事業」として、市民から公募したアイディアをもとに、日本現代詩歌文学館からJR北上駅間約2キロに6基の文学碑がつくられたうちの1基。他の寺山修司文学碑・高村光太郎詩碑などとともに一斉に除幕されたという。北上市のホームページ(きたかみの文学碑)によれば、沼津千本浜公園や日向市の歌碑など、平成20年(2008)4月現在でこの歌を刻んだ歌碑が全国に13基あるという。 |
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| 酒田市 日和山公園 酒田市南新町1-10 日和山公園 | |||
昭和59年(1984)10月 |
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大正6年(1917)8月5日秋田市での歌人大会に参加した牧水は、6日秋田を発って新庄に行き、最上川沿いに下って酒田に入る。大正5年6月に発行された『旅とふる郷』の中に「まだ郷里の中学に居た頃から深い望みを懸けてゐた三つの港が日本にあつた。一は肥前の島原港、一は伊豆の下田港、一は羽後の酒田港、確とした理由は思ひ出せぬが、何かといふと先づ此等の古い港を思ひ浮べて幼い旅行欲を自らそゝつてゐたものである。酒田は未だに知らぬ。」と書いている、その酒田行は自身にも多少意外だったと言う。秋田での謝礼が多かったことと数日来の雨に最上川の景が思われ、多年の願いをはたしたらしい。しかし、「北国紀行」には「酒田滞在二日」としか触れていない。8日には前年の「残雪行」で計画しながらはたせなかった海路をとって新潟に向かい、さらに長野に足を伸ばしている。 第11歌集『さびしき樹木』には「北国行」として43首まとめられている。その詞書は、 板谷峠 (3首) 院内峠 (3首) 最上川 (2首) 初めて酒田港を見る (1首) 同港滞在 (2首) 汽船にて酒田港を出づ (2首) 海路 (2首) 海上鳥海山遠望 (2首) 島見ゆ、飛島とかや (2首) 飛島の影消えしころ粟島見ゆ (2首) 船上 (14首) 船中独酌 (3首) 断崖尽きて遠き砂丘起る、地図を見れば越後の如し (2首) 日没近く佐渡島見ゆ (2首) この歌は「汽船にて酒田港を出づ」のうちの1首。 大最上海にひらくるところには風もいみじく吹きどよみ居り 砂山の蔭に早やなりぬひとのごと別れの惜しき酒田の港 船乗りが船を出すかどうかを決める日和を見るための山=日和山ということで、酒田の日和山も最上川河口を見下ろす小高い丘だが、江戸時代西廻り航路を開いて酒田発展の礎を築いた河村瑞賢の像や蔵跡の碑、日本最古級の木造六角灯台(明治28年建築・昭和33年移築)など見所の多い公園。昭和59年(1984)、その公園に市制50周年記念事業として「文学の散歩道」が整備されたのだという。芭蕉の句碑や像を初めとして蕪村・子規・茂吉・夢二・雨情・井上靖等々、酒田を訪れた文人の30の石碑や像が、それぞれに意匠を凝らして建てられている。 <日和山公園><大石田>へ |
| 山形県戸沢村 草薙温泉 最上郡戸沢村大字古口3058 旧臨江亭前 | |||
昭和57年(1982)4月除幕 |
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上に同じ第11歌集『さびしき樹木』「北国行」の「最上川」2首。 最上川岸の山群むきむきに雲篭るなかを濁り流るる 中高にうねり流るる出水河最上の空は秋ぐもりせり 草薙温泉はいま「最上芭蕉ライン舟下り」の降船場となっている。乗船場は古口駅近く。320年ほど前、芭蕉が新庄市本合海から庄内町清川まで舟で下った約半分の距離になろうか。陸羽西線と国道47号線が川に沿って走り、リバーポートやドライブインが人目を引くが、温泉場という雰囲気はない。そこの「臨江亭滝沢屋」前に歌碑があるとのことだったが、国道に面して建つのは平成7年(1995)新築の建物で、そこから数歩上流寄りの細い小路の奥にそれはひっそり立っていた。 「北国紀行」の旅は大正6年(1917)8月のこと。その紀行文には「古口駅あたりからその最上川が小さな汽車の窓に沿ふやうになった。予想通り水は岸に溢れて、その急な流れから直ぐ削つた様に木深い山が聳えてゐた。真白な瀧も諸所に懸つてゐた。五月雨を集めて速し最上川、今は五月雨ではないが、汪洋として而かもその流れの激しい所、いかにもこの古句の意に適つて見えた。両岸の木の深いのが特に眼を惹いた。が、汽車の窓からでは駄目だ、一度是非舟で下るか岸に沿うて歩いてみたいものだと思はれた。狩川辺から峡谷は尽きて平原が開けた。(略)とある長い橋を渡つた。折しもその夕陽は大河を縦に黄金の波を漲らしてゐたのである。その波の尽きる所、其処にわが酒田港があらねばならぬのだ。/酒田滞在二日、八日午前四時半河口を出る渡津丸に乗つて私は酒田を立つた。」とあるだけで、碑文の「若山牧水宿泊」を裏付けるものはない。また、「大正七年七月」というのは『さびしき樹木』を発行した時で、牧水がこの地を訪れた事実はない。 <草薙温泉>へ |