読み人知らず
もがみがは のぼればくだる いなふねの いなにはあらず このつきばかり 「古今和歌集」東歌に読み人知 らずとして収載されてり、最上川 が文学に現れた最初である。碑 の文字は古今和歌集最古の写 本「元永本」による。 |
温海山や吹浦かけてゆふ涼 元禄二年(1689)芭蕉が奥の細道の途 次、酒田の伊東不玉宅で詠まれた句 である。なお芭蕉自筆「おくの細道」に よると「温海山」は「あつみ山」である。 この碑は、天明八年(1788)、酒田の 俳人柳下舎寸昌が、須磨明石の俳 人武然の書で立てたと伝えられる。 平成十九年四月 補記 ← 暑き日を海に入れたり最上川
芭蕉 昭和五十四年酒田ロータリークラブが 建立。元禄二年(1689)奥の細道の途 次、酒田滞在中によまれた句。書は素 竜本からとって刻まれた。 → |
風が海から吹きつけているので ひどく寒かった 丘陵には松が多 く 松の幹の海と反対側の面にだ け雪が白くくっついている 二人 は丘陵の上を斜めにつっ切って 日枝神社の境内へとはいって行っ た 公園にも人の姿は見えなかっ たが 土地の人が山王さんと呼ぶ この神社の境内にも 人の姿は見 えなかった 境内にはいると地面 には雪が積っていた 井上靖「氷壁」より |
米ぢや庄内 港ぢや酒田 日和山まで 船が来る 大正十五年(1926)八月、酒田の荒 木京之助川柳集出版記念音楽会に 中山晋平、佐藤千夜子と共に来酒の 折荒木氏に贈ったものである。 |
酒田みなとに 錨を入れて 米を積み込む 鉢巻すがた 長い船路の 宿とる船よ 錨重たや 帆綱は澁や 町の子供に お国を問われ 海の彼方に 消えゆく白帆 国は遠いと よこ向く人よ 港にゃつぎの 船が来る 時雨音羽詩集より 明治三十二年(1899)北海道に生れる。この詩は、「時雨音羽詩集に」 ”酒田港”として残されている。昭和の初年酒田に来てうたったものであろ う。代表作「出船の港」「鉾をおさめて」「君恋し」等で知られる。 |
おほきなる流となれば ためらはず 酒田のうみに そそがむとする 茂吉 歌聖斎藤茂吉が昭和二十二年(1947) 酒田でよんだ歌を酒田短歌会が昭和三 十七年建立 |
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて 足乳根の母は死にたまふなり 茂吉 宝泉寺と茂吉 茂吉はこの菩提所宝泉寺の住職佐原窿応を尊敬し、その幼少年期は大きい感化を受けました。 宝泉寺本堂に向って左側に慈母を思う茂吉の歌碑が建ち、さらに左奥には佐原窿応の墓に並ん で、茂吉が昭和十二年五十五歳の時に書いた墓碑銘「茂吉之墓」裏面に「赤光院仁崇遊阿暁 寂清居士」の法名が刻まれ、後には生前自ら植えたアララギの木の枝が繁る下に分骨されておりま す。 齋藤茂吉 近代短歌界の代表的歌人齋藤茂吉は、明治十五年五月十四日右隣の守谷家三男として生ま れ、明治二十九年上京、齋藤家へ寄寓(のちに養子となる)するまでの間、この土地の人人より 絵、漢字や書などを習い文学的影響を受けながらすごしました。 上 山 市 (財)齋藤茂吉記念館 |
碑 文
齋藤茂吉は昭和二十年四月、郷里山形に戦 争疎開したが、門人板垣家子夫の慫慂により翌 年一月、大石田町二藤部兵右衛門邸の部屋 に移り、聴禽書屋と名づけそこに安住し、日夜作 歌に専念した。かくして最上川を詠んだ「虹の断 章」「逆白波」等の名歌が生まれた。 昭和二十二年十一月、茂吉は大石田を去る も、この二年間の茂吉と大石田との関係を永久 に記念するため、茂吉長男齋藤茂太の賛意を 得て、板垣家子夫は子等と共にこゝ茂吉之墓を 建立した。 茂吉の墓は東京都青山墓地のほかに、分骨に よる生地上山市金瓶宝泉寺、こゝ大石田と三 基存在することになる。 大石田の墓は、茂吉晩年の作歌生活ともっと も密接に結びついたものであるから、茂吉の霊は さだめしよろこび鎮まるであらう。これを思ひ門人 われらの本懐これに過ぐるものはない。 昭和四十七年八月十三日 門人 結城哀草果謹識 墓碑銘 齋藤茂太書 法 名 齋藤茂吉自筆 歿年月日 齋藤茂太書 |