牧水ー碑の詩

秋田 秋田市の三城址


 秋田市の市街地に、かつて三つの「城」があった。前九年の役(1051〜1062)の時の鎮守府将軍源頼義の子、新羅三郎義光の子孫である佐竹氏の居城「久保田城」。前九年の役で滅ぼされた安倍貞任の後裔と伝わる安東氏の「湊城」。そして、律令国家の北の守り「秋田城」。そこらをちょっと散策してみると・・・。

◆久保田城址(千秋公園)
   

 慶長7年(1602)、常陸54万石から秋田20万石に転封された佐竹義宣が慶長8年(1603)〜9年(1604)に築いた「久保田城」の跡。明治29年(1896)に肥前大村藩出身の造園家長岡安平によって公園として整備された。明治に入っての取り壊しや13年(1880)の火災によって、旧藩時代の建物は御物頭御番所が残るのみだが、平成元年(1989)市制100周年を記念して御隅櫓を天守風に再建。また、本丸表門も平成13年(2001)に復元された。なお、長岡の設計した公園は全国40数カ所におよび、横手公園や真人公園なども手がけているという。
 牧水歌碑は二の丸の東南部、「佐竹資料館」入口にあたる所にある。かつてここには飛行家佐藤章の胸像があった。佐藤章は明治27年(1894)現在の美郷町に生まれた民間飛行の開拓者だったが、大正10年(1921)津田沼上空での訓練飛行中きりもみ状態となり29歳の生涯を閉じたという。胸像の作者は朝倉文夫で、2.27mの台座には「墜落を想  一刹那そのひとときの尊かり生死のさかひ思ひ見るとき」という佐藤の歌が刻まれていた。
 以上『久保田城ものがたり』(渡部景一)によったが、この胸像の脇は小学校への私の通学路であった。誰の像かも知らず、歌が刻まれていたことは記憶にもないが、像の周りで道草をくったこともたびたびある。半世紀も昔のことであるが。それだけに、あの像がどこへ行ったのか、気になっている。
 それにしても、ここはやはり歌碑に縁の深い場所であることだ。(胸像はもともとは、つつじの美しい裏門坂の下にあったものだそうだが)


  ◆湊城址(土崎神明社・児童公園)

        湊  城  跡                         秋田市土崎港中央三丁目九番
 湊城は安東氏の居城であった。
 築城年代や規模は明らかでないが、天正元年(一五七三)当時すでに湊城があり、また現地形
と天文年間(一七三六〜一七四〇)の古絵図によると、堀をめぐらした平城であった。 慶長四年
(一五九九)から翌年にかけて本格的築造がなされた。
 慶長七年(一六〇二)秋田入りした佐竹氏も一時ここに拠ったが、同九年(一六〇四)久保田城
に移ったあと廃城となった。                                        市制施行九十周年記念
                                                                      昭  和  五  十  四  年    秋 田 市


 津軽の藤崎・十三湊を拠点としていた安東氏が本拠を秋田に移したのは、鎌倉末期から南北朝の頃と言われる。室町初期に安東鹿季が土崎に湊城を築き、湊安東氏に招かれた政季・忠季は能代の檜山にあって檜山安東氏となる。その後檜山安東氏の愛季が脇本城を本拠に戦国大名として勢力を拡大。その子実季が秋田・檜山・比内3郡を支配下に置き、新たに湊城を築造して本拠とするとともに秋田氏と称し、「秋田城介」を名乗ったという。しかし、秋田氏は慶長6年(1601)常陸宍戸に転封され、替わって佐竹氏が入城するも、久保田城完工とともに破却される。現在は土崎駅前の児童公園に「湊安東氏顕彰碑」が建つばかりで、城址の面影はない。(土崎駅前の道路拡幅工事で神明社境内は更に変化)
 神明社は元和6年(1620)、土崎の肝煎川口家の氏神であったものを土崎の総鎮守として湊城跡地に遷座したのが始まりという。平成9年(1997)国重要無形民俗文化財に指定された例祭の曳山行事は、寛政元年(1789)にすでに記録されているとか。

児童公園の片隅に変な句碑があった。脇碑を二つも持つ立派な碑ではあるが。

  大空に

  鳥の道あり

    初嵐

      沸茶
露月翁が大正十三年雲蹤の年頭に歸樵と題し「鳥道殘暉遠、雲
蹤不可尋、ヨウ然群動息、天地一無心」の詩を掲げている。此の詩
の心を句にすべく沸茶は十数年の歳月を心の中で錬り温め、「大空
に鳥の道あり初嵐」との句成つて俳星に投句した。時の小笠原洋々
主幹は之を佳句として誌上に発表された。星霜流れて六十有余年
前五工の名で「大空に鳥の路あり初嵐」の句あるを、吾、人共に知
らず、沸茶の碑に此の句を彫らしむ。両句の異るは”路”と”道”也。
余をして言わすむれば”道”なるを可とするも、世論は同想の句なる
が故に抹消するが先人への礼也と言う。先人への礼は尽すべきも、
嚴しく句の極限を求めるには、先人後輩の境を越えて判断せしめん
をこそ。是、非は対者の智識にあり、後世の識者に其の是非を問わ
んは如何に、故人浄土蓮上にあつて吾が愚意を笑うや否や
       昭和五十三年六月  俳星七代主幹 佐々木左木撰文
                                  碑 を ま も る 会 建之

 山崎沸茶(明治40年〜昭和51年) 秋田市土崎出身 俳句・川柳作家 郷土史家 民謡研究家
 「五工」とは石井露月らと『俳星』(正岡子規命名の俳誌)を出した島田五空であろう。そのまさに大先達の句と一字しか違わない句を石に刻まれては、「浄土蓮上」にあっても笑うに笑えないのではなかろうか。



 雑誌「種蒔く人」は大正十年(一九二一年)二月土崎港から発刊 碑の表面は第一
号の表紙を六倍大に拡大したもので 同人は土崎出身の小牧近江(本名近江谷駒)
金子洋文(本名吉太郎)今野賢三(本名賢蔵)近江谷友治 一日市出身の畠山松
次郎です この土崎版は三号で休刊 同年十月新同人を加えて東京から再刊し 秋
田労農運動と緊密なつながりをもちながら 日本における社会主義文学運動の先駆と
して 幾多の弾圧に抗してたたかいつづけました 雑誌は関東大震災にあって終刊したが
 その後における日本の社会主義文学及び文化運動は「種蒔く人」を源泉として発展
しつつあることは何人も認めるところで 昭和三十六年全冊誌が復刻刊行されました
 私達はこの偉大な業績を秋田の誇り日本の誇りとして ここに「種蒔く人」顕彰碑を建
立しました
                   昭和三十九年十二月 建之
                   秋田県「種蒔く人」顕彰会 代表 小幡谷政吉
                                       清華書 亀朋刻


  土崎駅の線路沿いにある市立土崎図書館前に建てられている。


◆秋田城址(高清水公園)

 天 平  5年( 733) 出羽柵を庄内から秋田村高清水の岡に遷す
 天平宝字 4年( 760) 出羽柵を秋田城に(?)
 宝 亀 11年( 780) 秋田城介を置き秋田城・由理柵を堅持することとする
 元 慶  2年( 878) 俘囚の叛乱で城を占拠される
 天 慶  2年( 939) 出羽俘囚秋田城を攻める
              ※前九年の役後秋田城介が在城しなくなり衰退
 大 正  7年(1918) 高清水公園開園
 昭 和 14年(1939) 国史跡指定
 平 成 10年(1998) 外郭東門と築地塀復元




   山美しく

   人貧し

      伊藤永之介

  昭和34年(1959)8月4日、秋田市全良寺での納骨式後の「偲ぶ会」で話題になり、一周忌の35年7月26日に除幕された。碑文は最後の色紙とされるものを拡大したという。
伊藤永之介
 明治36年(1903) 11月21日秋田市西根小屋末丁に生まれる 本名栄之助
 大正10年(1921) 土崎版『種蒔く人』に感銘を受ける
    13年(1924) 金子洋文を頼って上京 『文芸戦線』『文芸時代』に文芸評論発表
 昭和 3年(1928) 『文芸戦線』に参加 廃刊まで編集に携わる
    12年(1937) 勤めをやめ創作に専念 小説「梟」、翌年の「鴉」「鴬」芥川賞候補となる
    18年(1943) 24年まで横手・秋田に疎開(19年7月〜11月陸軍報道班員として湖南へ)
    28年(1953) 金子洋文らと社会主義作家クラブ結成 機関紙の編集責任者となる
    31年(1956) 日本農民文学会会長に就任
    34年(1959) 7月22日自宅書斎で脳溢血のため倒れ、26日永眠


    秋田市指定文化財    菅 江 真 澄 の 墓
 菅江真澄翁(本名白井英二)は宝暦四年(1754)三河の国(愛知県東部)で生まれた。天明三
年(1783)旅に出た時から白井秀雄と名乗り、文化七年(1810)から菅江真澄と称した。文政十二
年(1829)七月十九日、仙北の地で亡くなったが、墓碑には七十六、七とあるので、当時の秋田
の友人も正確な年齢はわかっていなかったようである。
 人生の大半を旅に生きた翁は、百種二百冊におよぶ著作を残した。著書には詳細な図絵が挿
入され、読む人に感動を与えている。日記、地誌、随筆、図絵集などの体裁をとっているが、その
内容は民俗、歴史、地理、国学、詩歌、考古、本草などの分野に及んでいる。人々はこれを「菅
江真澄遊覧記」と総称している。
 翁は旅を好み、故郷を出る前にも、富士山に登り、伊吹山で薬草をかり、姥捨山の月をみ、大
峰山では修験道を学んでいる。旅に出てからは、長野、新潟、山形を通って、天明四年は柳田
(湯沢市)で越年した。翌年、秋田を訪れた後、青森、岩手、宮城に遊んだあと、北海道に渡り、
青森をへて、享和元年(1801)には再び秋田に入った。この時翁は四十八歳であった。これより没
するまでの二十八年間翁は秋田を離れることなく、藩主佐竹義和や多くの藩士、百姓、手工業
者、遊芸人などと交際した。藩の許可を得て秋田六郡の地誌、雪月、花の「出羽路」の編纂に
精魂をかたむけた。翁の著書は、きびしい自然の中に生きた雪国の常民の喜びや悲しみを客観
的に記述したものとして民俗研究の貴重な資料となっている。
 秋田を歩き、秋田を誌し、秋田を愛した翁は、取材途中梅沢(田沢湖町)で病に倒れ、角館に
運ばれて没したとも、梅沢で亡くなったとも伝えられている。翁の遺骸は友人鎌田正家(古四王神
社の摂社田村堂の神官)の墓域に葬られた。天保三年(1821)三回忌をもって墓碑が建立され
た。墓碑銘は翁の弟子鳥谷長秋が書き、長文の挽歌が刻まれた。
                           昭和三十七年四月九日 史蹟指定  秋 田 市
 <千秋公園歌碑に戻る>