
◆湊城址(土崎神明社・児童公園) 湊 城 跡 秋田市土崎港中央三丁目九番
湊城は安東氏の居城であった。 築城年代や規模は明らかでないが、天正元年(一五七三)当時すでに湊城があり、また現地形 と天文年間(一七三六〜一七四〇)の古絵図によると、堀をめぐらした平城であった。 慶長四年 (一五九九)から翌年にかけて本格的築造がなされた。 慶長七年(一六〇二)秋田入りした佐竹氏も一時ここに拠ったが、同九年(一六〇四)久保田城 に移ったあと廃城となった。 市制施行九十周年記念 昭 和 五 十 四 年 秋 田 市 |
大空に 鳥の道あり 初嵐 沸茶 |
露月翁が大正十三年雲蹤の年頭に歸樵と題し「鳥道殘暉遠、雲
蹤不可尋、ヨウ然群動息、天地一無心」の詩を掲げている。此の詩 の心を句にすべく沸茶は十数年の歳月を心の中で錬り温め、「大空 に鳥の道あり初嵐」との句成つて俳星に投句した。時の小笠原洋々 主幹は之を佳句として誌上に発表された。星霜流れて六十有余年 前五工の名で「大空に鳥の路あり初嵐」の句あるを、吾、人共に知 らず、沸茶の碑に此の句を彫らしむ。両句の異るは”路”と”道”也。 余をして言わすむれば”道”なるを可とするも、世論は同想の句なる が故に抹消するが先人への礼也と言う。先人への礼は尽すべきも、 嚴しく句の極限を求めるには、先人後輩の境を越えて判断せしめん をこそ。是、非は対者の智識にあり、後世の識者に其の是非を問わ んは如何に、故人浄土蓮上にあつて吾が愚意を笑うや否や 昭和五十三年六月 俳星七代主幹 佐々木左木撰文 碑 を ま も る 会 建之 |

雑誌「種蒔く人」は大正十年(一九二一年)二月土崎港から発刊 碑の表面は第一
号の表紙を六倍大に拡大したもので 同人は土崎出身の小牧近江(本名近江谷駒) 金子洋文(本名吉太郎)今野賢三(本名賢蔵)近江谷友治 一日市出身の畠山松 次郎です この土崎版は三号で休刊 同年十月新同人を加えて東京から再刊し 秋 田労農運動と緊密なつながりをもちながら 日本における社会主義文学運動の先駆と して 幾多の弾圧に抗してたたかいつづけました 雑誌は関東大震災にあって終刊したが その後における日本の社会主義文学及び文化運動は「種蒔く人」を源泉として発展 しつつあることは何人も認めるところで 昭和三十六年全冊誌が復刻刊行されました 私達はこの偉大な業績を秋田の誇り日本の誇りとして ここに「種蒔く人」顕彰碑を建 立しました 昭和三十九年十二月 建之 秋田県「種蒔く人」顕彰会 代表 小幡谷政吉 清華書 亀朋刻 |
◆秋田城址(高清水公園)
山美しく 人貧し 伊藤永之介 |

秋田市指定文化財 菅 江 真 澄 の 墓
菅江真澄翁(本名白井英二)は宝暦四年(1754)三河の国(愛知県東部)で生まれた。天明三 年(1783)旅に出た時から白井秀雄と名乗り、文化七年(1810)から菅江真澄と称した。文政十二 年(1829)七月十九日、仙北の地で亡くなったが、墓碑には七十六、七とあるので、当時の秋田 の友人も正確な年齢はわかっていなかったようである。 人生の大半を旅に生きた翁は、百種二百冊におよぶ著作を残した。著書には詳細な図絵が挿 入され、読む人に感動を与えている。日記、地誌、随筆、図絵集などの体裁をとっているが、その 内容は民俗、歴史、地理、国学、詩歌、考古、本草などの分野に及んでいる。人々はこれを「菅 江真澄遊覧記」と総称している。 翁は旅を好み、故郷を出る前にも、富士山に登り、伊吹山で薬草をかり、姥捨山の月をみ、大 峰山では修験道を学んでいる。旅に出てからは、長野、新潟、山形を通って、天明四年は柳田 (湯沢市)で越年した。翌年、秋田を訪れた後、青森、岩手、宮城に遊んだあと、北海道に渡り、 青森をへて、享和元年(1801)には再び秋田に入った。この時翁は四十八歳であった。これより没 するまでの二十八年間翁は秋田を離れることなく、藩主佐竹義和や多くの藩士、百姓、手工業 者、遊芸人などと交際した。藩の許可を得て秋田六郡の地誌、雪月、花の「出羽路」の編纂に 精魂をかたむけた。翁の著書は、きびしい自然の中に生きた雪国の常民の喜びや悲しみを客観 的に記述したものとして民俗研究の貴重な資料となっている。 秋田を歩き、秋田を誌し、秋田を愛した翁は、取材途中梅沢(田沢湖町)で病に倒れ、角館に 運ばれて没したとも、梅沢で亡くなったとも伝えられている。翁の遺骸は友人鎌田正家(古四王神 社の摂社田村堂の神官)の墓域に葬られた。天保三年(1821)三回忌をもって墓碑が建立され た。墓碑銘は翁の弟子鳥谷長秋が書き、長文の挽歌が刻まれた。 昭和三十七年四月九日 史蹟指定 秋 田 市 |