牧水ー碑の詩

中部2 (静岡県 伊豆)

                                                                  <Album6 伊豆>へ

 静岡県 土肥 松原公園T            伊豆市土肥2657-6 
昭和45年(1970)8月24日除幕<58>

     ひそまりて

     久しく見れば

        とほ山の

     ひなたの冬木

     かぜさわぐらし

          牧水

   若山牧水歌碑
土肥温泉を深く愛した歌
人若山牧水は、三十三才
の大正七年から土肥温泉
にしばしば長期滞在し百数
十首の歌を遺したが、この
歌は大正七年二月の作
で、筆蹟はその当時のもの
である。
 昭和四十五年八月吉日
 設計 若山旅人
 撰文 大悟法利雄
 建設 土肥町観光協会
 後援 土肥町
 施工 沼津石材

 大正7年(1918)元旦、青森から上京した門人を三浦半島三崎に案内しようとしたが、鎌倉を見物後気が変わり、沼津に一泊して土肥を訪れる。この沼津泊が後の移住につながる。2月には第11歌集『さびしき樹木』等の原稿整理を目的に一人土肥を訪れ、7日から24日まで滞在している。これらの時の作が第12歌集『渓谷集』の「伊豆の春」に収められている。詞書は次のようになっている。
    一月元旦加藤東籬君と共に駿河沼津なる狩野川の川口に宿る。 (3首)
    翌二日汽船にて伊豆土肥へ越ゆ (4首)
    二月七日今度はわれ一人にて土肥へ赴き月末まで滞在す、その時の歌のうちより。
       早春雑詠 (42首)   浪と真昼と (5首)   静夜 (3首)   海女(其の一) (2首)
       海女(其の二) (18首)   妻が許へ送れる (7首)
    土肥より汽船にて沼津へ渡らむとし、戸田の港口にて富士を見る (7首)

 歌碑の歌は、「早春雑詠」中の1首。
       よりあひて真すぐに立てる青竹の藪のふかみに鴬の啼く
       ひそまりて久しく見ればとほ山のひなたの冬木風さわぐらし
       角石のつぶらの石のとりどりにかぎろふ浜に待てる船かも
       このわたり端山低山おしなべて梅しろく咲けり寒き春日に
       春立つと沖辺かすめる湯の町にひとり篭りてさびしくも居る
       ほのぼのと煙草の酔の身にはしみ東風寒きかも朝のなぎさに
       皮かたき小鰺小ざかな月ちかく喰いつづけたれば今は菜を思ふ

 斜めに向かい合う位置に、大正14年(1925)この地を訪れた島木赤彦の歌碑がある。赤彦があって牧水がないのはおかしいということでこの歌碑が建立されたという。
       土肥の海漕ぎ出でて見れば白雪を天にかけたり不二の高根は    赤彦


 静岡県 土肥 松原公園U
平成11年(1999)12月11日除幕

    花のころに

    来馴れて

    よしと思へりし

    土肥に来て

    見つ その

    梅の實を

            牧水
 
       若山牧水と土肥温泉
歌人若山牧水は、明治十八年宮崎県東郷町
坪谷に生れる。本名繁。延岡中学時代から文
学に傾倒し牧水と号する。早稲田大学に進み、
様々な人々と文学的交流を深め、浪漫的な作
風の自然主義歌人として人気を博し、歌壇の
先頭に立ち活躍した。旅と自然の歌、恋の歌そ
して酒の歌を多数詠み、一世を風靡する。牧水
は土肥の自然、温泉、人情を好み、大正七年
以降延百泊、百五十余の歌を詠む。碑の歌は
大正十四年五月宿での作。昭和三年沼津市
で没。享年四十四才

      胸像の制作者について
制作者奥村良弘は、昭和十一年宮崎県都城
市に生まれ、多摩美術大学卒、菊地一雄に師
事。代表作は、宮崎県東郷町に建立された、
牧水像ほか。
     平成十一年十二月十一日
              土肥町観光協会
 『若山牧水新研究』によれば、土肥行きは以下のようである。
 ○大正七年
   一月一日、青森から来訪中の加藤東籬を案内して鎌倉見物をしたのち、沼津に行き一泊、翌
   日伊豆土肥温泉に行き、四日夜帰宅。(四日、歌七首)
   二月七日、再び土肥温泉に行き、二十四日まで滞在。(一八日、歌八四首)
 ○大正十一年
   一月一日から伊豆土肥温泉滞在、十二日帰宅。(一二日、歌三八首)
 ○大正十二年
   一月十六日から二月五日まで伊豆土肥温泉に滞在、静養のかたわら歌集『山桜の歌』を編
   集。(二一日、歌九首)
 ○大正十三年
   一月一日から伊豆土肥温泉に滞在、二月二日帰宅。(三三日、歌四首)
 ○大正十四年
   五月五日から土肥温泉に二泊。(三日)

 大正14年(1925)は「完全に半折会の揮毫行脚に終始した一年」(『若山牧水伝』)で、4月18日から5月4日まで長野県・岐阜県・名古屋等を回って帰宅すると、新居の工事を頼んでいた土肥の大工から材木のことですぐ来てほしいとの連絡があり、翌朝妻と二人直ちに土肥へ駆けつけたのだという。撰文によれば、歌はその時の作であろうが、『若山牧水全歌集』には載っていない。
       花のころに来馴れてよしと思へりし土肥に来て見つその梅の実を

 当時伊豆半島西海岸唯一の温泉で、沼津から船が便利でもあり、新春には梅の花が見られるということで、『渓谷集』に9首(大正7年)、『山桜の歌』9首(大正11年)、『黒松』1首(大正13年)と、150余首という土肥の歌の1割強に梅を詠った歌が収められている。
                                                                                                                                              <Album6 松原公園>へ

 静岡県 土肥館 夫婦歌碑             伊豆市土肥289-2
昭和45年(1970)8月24日除幕<59>

  わが泊り三日四日つづきゐつきたる

   この部屋に見る冬草のやま

     伊豆土肥温泉土肥館にて  牧水





                   喜志子
     蛙なき
     夕さりくれば
      かへらまし
        かへらましといふ
          吾子つれてきぬ
 写真左側が牧水歌碑。そもそもは、昭和37年(1962)6月下旬、門を入ったすぐの
庭に1.4mほどの歌碑が除幕されたそうだが、あまり見栄えがしないということで45年に改めて建立され(高さ2m、幅・厚さ70p)、松原公園の歌碑に続いて除幕されたという。歌は新旧歌碑とも同じ。筆蹟は、前の碑が都費館所蔵の半折の字を模したものでるのに対し、新しい碑は半折そのまま二行に刻んだとか。前の碑は内庭に移された。(『牧水歌碑めぐり』による)
   
 第14歌集『山桜の歌』「大正十一年」の部の最初に「土肥温泉にて  一月一日、沼津狩野川々口より伊豆国土肥温泉に渡り十日あまり滞在す。」として、26首。
       柴山のかこめる里にいで湯湧き梅の花咲きて冬を人多し
       湯の宿のしづかなるかもこの土地にめづらしき今朝の寒さにあひて
       わが泊り三日四日つづき居つきたるこの部屋に見る冬草の山
       わが坐るま向ひの方ゆひびきくる冬の夜ふけの海のとどろき
       柴山の尾根よりいづる冬の日はひたと射したりわが坐る部屋に

 牧水の常宿として今や「牧水荘土肥館」を名乗り、「若山牧水ギャラリー」もあるという。   
                                                                                                                                              <Album6 土肥館>へ

 静岡県 恋人岬 富士見遊歩道          伊豆市小下田
昭和59年(1984)10月除幕

       海 女

     ひとみには

    露をたゝへつ

      笑む時の

   丹の頬のいろは

       桃の花に

          して

        若山牧水

          「溪谷集」

        若山牧水歌碑
 酒と旅を何よりも愛し、自然に親しんだ流
浪の歌人若山牧水は、土肥温泉を深く愛
し、三十三才の大正七年よりしばしば長期
滞在し、百数十種の歌を詠み近代文学に
土肥温泉を最初に紹介した人となった。
この歌はその時に海女を詠んだ連作の中の
一つである。
       昭和五十九年十月吉日
           土肥町観光協会


 「松原公園T」に記した、第12歌集『渓谷集』の「伊豆の春 海女(其の二)」中の1首。

       黒岩のこごしき蔭に見出でつるこの海女が子を親しとは見つ
       おもはぬに言葉はかけつ面染めてはぢらふ見れば悔いにけるかも
       ひとみには露をたたへつ笑む時の丹の頬のいろは桃の花にして
       椿のいまだふふみて咲きいでぬこの海女が子を手にか取らまし
       素はだかにいまはならなとおもへるごとその健かの顔はわらへり

 昭和58年(1983)遊歩道が完成し、恋人岬と改名。
 
                                                                <Album6 恋人岬>へ

 静岡県松崎町 岩地海岸             賀茂郡松崎町岩地151-1 民宿海遊荘
昭和41年(1966)5月19日除幕<47>
    山ねむる山のふもとに海ねむる

     かなしき春の国を旅ゆく    牧水

 第3歌集『別離』の「女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ。われその傍らにありて夜も昼も断えず歌ふ、明治四十年早春。」という詞書がある一連76首中の1首。安房根本海岸に渡ったのは40年の年末であり、「四十年早春」は「四十一年」の誤りである。この時の歌は多く『新声』41年2月号に発表されており、この歌も同じ紙面を飾っている。したがってまさに「安房の渚」で詠われたものと思われるが、第1歌集『海の声』には採られず、『別離』に新たに加えられた。

       恋ふる子等かなしき旅に出づる日の船をかこみて海鳥の啼く
       山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく
       忍びかに白鳥啼けりあまりにも凪はてし海を怨ずるがごと
       春のそら白鳥まへり嘴紅しついばみてみよ海のみどりを
       くちつけは永かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る
       春の海さして船行く山かげの名もなき港昼の鐘鳴る

 「弓なりの美しい浜のまん中あたりの岩の上といえば、いかにも目立ちそうだが、新しく出来た高い防潮堤にくっついていてちょっと人目につかない。」とは『牧水歌碑めぐり』の記述だが、その後「民宿海遊荘」脇の木陰に移設されたようである。「筆蹟は土地の故老で、無理な変体仮名を多用して読みにくい」(『牧水歌碑めぐり』)。
                                                                <Album6 岩地海岸>へ

 静岡県松崎町 牛原山町民の森         賀茂郡松崎町牛原山
昭和61年(1986)3月除幕
    幾年か見ざりし草の石菖の

    青み茂れり此処の溪間に

               牧水詠 旅人書

  第13歌集『くろ土』所収。大正九年の部「伊豆にて」に「二月十二日伊豆松崎港よりとある溪に沿ひて天城街道に出づ。」の詞書がある。
    幾年か見ざりし草の石菖の青み茂れり此処の溪間に
 続けて、「十三日徒歩して天城山を越ゆ、やがて雪降り出で山上積る事尺に及ぶ。」20首。
    霜どけの崖ゆ落ち来るさざれ石のさびしき音は道に続けり
    九十九折登ればいよよ遙けくて麓の小溪ながめ見飽かぬ
    大君の御猟の場と鎮まれる天城越えゆけば雪は降りつつ
    道の上に積みゆく雪をながめつつ今は急ぎぬ峠真近を
 「山を越えて麓なる湯が島温泉に到る、あたりまた深々と雪積りたり、滞在四日。」5首。
    樫鳥のつばさ美し庭さきの青樫のあひをしばしばも飛ぶ
    山中の温泉に来り静けしとこころゆるめば思ふ事おほし
 「附近に木立の淵といへる溪流あり、山の相迫れるところ岩秀で水深し。」3首。
    流れ寄る水泡うづまき過ぎゆけど静かなるかも岩蔭の魚は

 この時の旅は、2月9日出発。沼津に1泊して下田行きに乗船したが、戸田を過ぎるとひどい風浪となり土肥に寄ったものの下船できず、阿良里の港で欠航となる。やむなく仁科村浜町という所で2泊。12日、そこから松崎に出てバス・徒歩等で湯ヶ野温泉に向かい1泊。そして13日、雪の天城峠を越えて湯ヶ島温泉に赴き、4日滞在して東京に戻ったのだという。
                                                                  <Album6 牛原山>へ

 静岡県 湯ヶ島温泉                 伊豆市湯ヶ島2785-2 西平神社参道
昭和56年(1981)4月2日除幕<92>

    うす紅に葉はいちはやく

         もえいでて

    さかむとすなり山ざくら花

                   牧水

  吊橋のゆるるあやふき渡りつつおぼつかなくも
    見し山ざくら

    とほ山の峰越の雲のかがやくや峰のこなたの
    山ざくら花

    瀬瀬走るやまめうぐひのうろくづの美しき頃の
    山ざくら花

    山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ
    葉のいろぞよき

     撰  文
 大正九年夏、東京から沼津に移った歌人
若山牧水は、ふるさと日向を思わせる湯ヶ島
温泉の風物を深く愛し昭和三年に没するまで
しばしば来遊して長期滞在し、円熟したその
後期の清澄な自然詠代表作たる数々の名
作を遺した。
 この歌碑には、大正十一年、三十六歳の
春の「山ざくら」(歌集「山桜の歌」所収)一
連二十三首中の五首を録した。第一首は大
正十四年の筆蹟。
                大悟法利雄
 副碑の撰文にあるとおり、大正11年(1922)3月28日湯ヶ島温泉に出かけ、川端康成が「伊豆の踊子」を執筆したことで有名な湯本館に4月20日まで滞在した時の作で、後期の代表作と言われる一連である。
 第14歌集『山桜の歌』の「山ざくら  三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ。附近の渓より山に山桜甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此処にまとめつ。」
       うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花
       うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花
       花も葉も光りしめらひわれの上に笑みかたむける山ざくら花
       瀬瀬走るやまめうぐひのうろくづの美しき春の山ざくら花
       つめたきは山ざくらの性にあるやらむながめつめたき山ざくら花
       とほ山の峰越の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花
       吊橋のゆるるあやふき渡りつつおぼつかなくも見し山ざくら
       山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき

 牧水は「中学の寄宿舎に在つて恋しいものはたゞ父であり母であり、その故郷の山の山ざくらの花であった。」「今年偶然にもこの花の非常に多い処を発見した。それはいま私の滞在してゐる伊豆湯ヶ島温泉である。」と、「追憶と眼前の風景」に書いている。そしてこの11年3月以後、12年4月(4泊)、14年4月(2泊)、15年5月(1泊)、昭和2年3月(2泊)、3年3月(1泊)と、山桜の季節にはほぼ毎年出かけている。(それ以前は、大正9年2月3泊、10年3月12泊)
                                                               <Album6 湯ヶ島温泉>へ

 静岡県 湯ヶ島温泉 天城屋           伊豆市湯ヶ島
昭和60年(1985)11月除幕(?)

   あまき嶺の千歳の

   老樹根をひた寿

   真清水くみて

    加茂すこのみき

           牧水
         淺田醸造店
 
 清酒「天城」の醸造家淺田六平は、若山牧水が心を
許した酒友であり、川端康成とは碁仇の間柄でもあった。
これらの交友や、牧水の酔態についても川端は、”「伊豆
の踊子」の装幀その他”(一九二七年五月)、”若山牧水
と湯ヶ島温泉”(一九二八年一一月)などにより追想してい
る。
 牧水はこの地で愛飲した「天城」に一首をよせた。右の
碑に刻まれた歌である。地酒にことよせて六平への友情を
詠んだ歌である。
 六平の孫淺田一枝は、この碑を建て、一ケ月を経ずし
て一九八五年一二月世を去った。一枝は井上靖”しろば
んば”に登場する少年”芳衛”その人でもある。
 清酒「天城」も今次大戦中姿を消した。
 茫々たる往時の、文人たちと山村湯ヶ島の心温まるか
ゝわりを、一枝はこの歌碑により吾々に伝えようとしたので
ある。                   (宇田博司 記)
   一九八七年三月三日
      昭和の森伊豆近代文学館、天城観光協会
 
 



       あまぎ嶺の千歳の老樹根をひたす真清水くみて醸すこのみき

 歌は歌集に載っておらず、資料も全く持っていないので、インターネットで拾い集めてみた。

 清酒「天城」は副碑に「姿を消した」とあるが、ブログ「花と祭の気まま旅」には「辛口、冷やして飲むとスッキリしたのみ口」とあり、この歌が印刷されたラベルの「天城」が載っている。

 ーー 浅田六平さんは清酒「天城」の醸造家である。もう七十の坂を越えようと言うのに瓢々乎として自ら楽しみ愚痴を言わない品のいい老人。天城の南のことは私に分らないが、修善寺から天城の北までの街道筋に、吉奈のさか屋の主人を除けば右に出る者がない碁打ちである。奇々怪々な我流の取り碁であるが、石の活殺となると流石一流の粘りを持っている。 ーー
 川端康成の「『伊豆の踊子』の装幀その他」にこう記された淺田六平は天城屋の8代目。酒樽を担いで牧水の泊まっている宿まで運び、台所で樽を前に酒盛りが始まったという。

 ネットで検索すると、眠雲閣落合の前に「天城屋商店」(湯ヶ島275-2)があり、淺田六平のひ孫で11代目の女性が経営しているらしいが、歌碑を訪ねたK君によると、歌碑は小学校の左側の民家の庭にあったそうで、そちらが自宅ということになるか(?)  
 

 静岡県下田市 恵比須島             下田市須崎
昭和55年(1980)9月7日除幕<91>

     友が守る

     灯台はあはれ

     わだ中の

     蟹めく岩に

     白く立ち居り

             牧水
 
若山牧水は大正二年十月二
十八日神子元島の灯台守で
ある大学時代の学友古賀安
治を訪ねるため渡島し一週間
留つた その折の体験は八十首
余の大作となって歌集秋風の
歌に収められ又小説灯台守や
小品島三題の一となった わが
郷土が大歌人によって詠まれた
ことを誇りとし永遠に敬慕するよ
すがとしてその中の一首を碑に
刻みこの地に建てることにした
染筆は特に嗣子若山旅人に
請うたものである
 昭和五十五年六月一日
 下田市歌碑建立発起人会
      代表 賀茂短歌会
 
大正2年(1913)6月、郷里からほぼ1年ぶりに上京した牧水は、7月末『創作』を復活、9月には歌集『みなかみ』を刊行した。そして、10月26日夜下田に向かった。翌日も荒れは収まらず、28日朝ようやく神子元島に渡る。その時の歌が第7歌集『秋風の歌』に「秋風の海及び灯台」として81首収められている。(もともとは旅行記と合わせた歌文集として出版する計画だったという。)

    東京霊岸島より乗船、伊豆下田港へ渡る(7首)
    伊豆の岬に近づきしころ、風雨烈しく船まさに覆らむとす(10首)
    下田港より灯台用便船に乗りて神子元島に渡る、一木なき岩礁なりき(35首)
       船は五挺櫓漕ぐにかひなの張りたれど涛黒くして進まざるなり
       大うねりかたむきにつつ落つるときわが舟も魚とななめなりけり
       みだれ立つしぶきにぬれて火のごとくわれの白帆は風に光れり
    その島にただ灯台立てり、看守Kー君はわが旧き友なり(29首)
       友が守る灯台はあはれわだ中の蟹めく岩に白く立ち居り
       切りたてる赤岩崖のいただきに友は望遠鏡を振りてゐにけり
       砕け立つ浪のすきまに沙魚のごと真赤き岩にとびうつりけり
       ダリアの花につぎつつ舟子等とりいだす重きは友よ酒ぞこぼすな
       石づくり角なる部屋にただひとつ窓あり友と妻とすまへる
       その窓にわがたづさへし花を活け客をよろこぶ若きその妻
       語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけり先づ酒酌まむ

 古賀安治という人は佐賀の資産家の息子で、早稲田を中退して島を買いきって住んだり、渡米・放浪したりと奔放な生活を送ってきたそうだが、その彼に灯台守になることを勧められ一時は真剣に考えた心の揺れは、まさに「灯台守」「島三題」に詳しい。神子元島は下田港から南へ11キロ、静岡県最南端の無人島で、明治3年(1870)に造られた灯台は石造灯台として日本最古の現役灯台とのこと。歌碑の除幕に関しては『牧水歌碑めぐり』によった。
                                                                <Album6 恵比須島>へ

 静岡県下田市吉佐美               下田市吉佐美 吉佐美区売店近く
平成11年(1999)11月14日除幕

                若山牧水

   友が守る燈台はあはれ
           わだ中の
     蟹めく岩に白く立ち居り


        神子元島燈台 詠


             近藤芳美

   沖の燈台めぐれば
           光る磯波に
     歩みて未明のとき流れつつ
   
 恵比須島の歌碑と同じ神子元島の歌であるが、この歌碑は「神子元島燈台詠」として近藤芳美が昭和49年(1974)に詠んだ歌と二首並んで刻まれている。
 牧水子息、旅人も昭和55年(1980)この地を訪れ、次の2首を詠んでいる。
       蟹めくと譬へられにし溶岩の神子元島は沖に真赤し
       闇空にひそめる雲を灯台の灯がめぐり来て照らしては過ぐ

 土地の隆盛を願い「神子元島文学碑建立会」が建てたが、「一人一石運動」として地元の小学生が台石を運んだとのこと。

                                                                  <Album6 吉佐美>へ