牧水ー碑の詩

関東2 (東京都・神奈川県)

                                                     <Album2 東京>へ     <Album2 神奈川>へ

 東京都日野市 百草園T                      日野市百草560
昭和46年(1971)11月20日除幕<62>
    山の雨しばしば軒の椎の樹に
   ふり来てながき夜の灯かな

   摘みてはすて摘みてはすてし野の
   はなの我等があとにとほく続きぬ

   拾ひつるうす赤らみし梅の実に
   木の間ゆきつつ歯をあてにけり

             百草園にて 若山牧水


若山牧水歌碑
 牧水は自然を求めて旅に生きた旅人で早稲田大
学に学ぶ頃明治三十九年初めてここを訪ねその後
数年に渉って当時この碑の所にあった茶屋に滞在し
て武蔵野の自然を詠った。吾人はここに其の三首
をえらび百草園の為に残すものである。              
   昭和四十一年十一月     日野観光協会




百草園と若山牧水
旅に生きた憂愁の歌人として有名な若山牧水は、
まだ学生であった明治四十年前後に、百草園の  
自然を愛して、しばしば訪れていました。            
四十一年秋には、小枝子という美しい名の恋人を
連れて泊り、熱烈な恋の歌をよんでいます。        
この恋は悲恋に終り、一年後にふたたび百草園を
訪れた牧水はひとり静かに思いにふけり歌集「独
り歌へる」を作りましたが、この時期に歌人として
立つ事を決意したのです。                              
この牧水と百草園との深いゆかりを伝えるために    
昭和四十六年秋に建設された歌碑は、牧水長男
若山旅人氏が設計しています。                      

◆ 山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯かな (百草山にて)
 第1歌集『海の声』および第3歌集『別離』の、「旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ
出にたよりよかれとて」という一連(「十首中国を巡りて」ーー有名な「幾山河」の歌を含むーーや「二十六首南日向を巡りて」など、まさに各地の旅の歌)の最初に収められている。
 これは明治39年(1906)10月、早稲田の級友土岐善麿に誘われ、武蔵野から御嶽・大嶽と歩いた時の作。百草園には5日の日1泊している。

 牧水が百草園を初めて訪れた時期ははっきりしないが、少なくとも明治38年(1905)の秋か39年の初めには郷里の友人と一緒に訪ねているという。以後、まさにしばしば訪れては石坂という茶店に泊まっている。大悟法氏によれば、『別離』の巻頭歌
   水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山の昼を
は、39年4月に百草園に数日滞在した時の作と推定されている。「山と云つても岡です、(略)武蔵野の平原は地平につづくまで眼下に展開せられてゐます、地平から地平に横たはつて居るほの白い多摩の川、それも岡の麓に見ることが出来るのです、東京に近い割合に一体の空気(こころもち)が深山です」という友人宛の手紙をあげながら。

◆ 摘みてはすて摘みてはすてし野のはなの我等があとにとほく続きぬ
 第2歌集『独り歌へる』・『別離』所収。
       うちしのび夜汽車の隅にわれ座しぬかたへに添ひてひとのさしぐむ
に始まる「或る時に」の詞書がある13首中の1首。明治41年(1908)4月25日、『海の声』の編集をすませ小枝子とここに2泊した時の作。牧水22歳、早稲田の卒業を7月に控えた時であった。小枝子23歳。次の「百草園U」の歌碑の歌と同時作。

◆ 拾ひつるうす赤らみし梅の実に木の間ゆきつつ歯をあてにけり
 『独り歌へる』・『別離』の「六七月の頃を武蔵多摩川の畔なる百草山に送りぬ、歌四十三首」(実際は46首)中の一首。明治42年(1909)6月19日から7月15日までの約1ヶ月間、牧水は『独り歌へる』編集のため一人滞在した。恋は破綻に瀕していた。そしてこれ以後再びここを訪れることはなかった。
       とびとびに落葉せしごとわが胸にさびしさ散りぬ頬白鳥の啼く
       別るべくなりてわかれし後の日のこのさびしさをいかに追ふべき
       かなしきは夜のころもに更ふる時おもひいづるがつねとなりぬる
       鋭くもわかき女を責めたりきかなしかりにしわがいのちかな
       わがこころ静かなる時につねに見ゆ死といふもののなつかしきかな


 日野市 百草園U 生誕百周年建立歌碑 
昭和60年(1985)11月24日除幕
 
    小鳥よりさらに身かろくうつくしく

      かなしく春の木の間ゆく君

                 牧水詠  旅人書

      若山牧水生誕百周年建立歌碑
 百草園の歴史は古く享保年間(一七一五年頃)松
連寺の庭園として作られ、文化・文政の頃より歌会や
句会などで賑わっておりました。
 明治に入り代表的歌人の若山牧水(明治十八年
八月二十四日宮崎県に生れる)も早稲田大学に在
学中武蔵野の自然を愛し度々百草園を訪れておりま
す。
 明治四十一年春、恋人園田小枝子と共に百草園
で楽しい一時を過ごし
 「小鳥よりさらに身かろくうつくしく
      かなしく春の木の間ゆく君」と
恋人に対する親しみと憧れの心を詠み、翌年夏この
歌を加えた歌集「独り歌える」を編纂し歌人としての名
声を得ることになりました。
 ここに生誕百周年を迎えるにあたり、歌人若山旅人
氏(牧水の長男)の選歌揮毫による歌碑を建立し記
念するものであります。
 昭和六十一年十一月吉日  日野市観光協会
                   京王電鉄株式会社
                   日野市教育委員会









 「百草園歌碑T」の2首目と同じ明治41年(1908)4月25日夜、小枝子を伴って百草園を訪れた時の作。『独り歌へる』『別離』所収。
       野のおくの夜の停車場を出でしときつとこそ接吻をかはしてしかな  (或る時に)
       山はいま遅き桜のちるころをわれら手とりて木の間あゆめり
       木の芽摘みて豆腐の料理君のしぬわびしかりにし山の宿かな
       春の日の満てる木の間にうち立たすおそろしきまでひとの美し
       小鳥よりさらに身かろくうつくしく哀しく春の木の間ゆく君
       静かなる木の間にともに入りしときこころしきりに君を憎めり

 根本海岸で新年を迎えて東京に戻ってから間もない頃
       君を得ぬいよいよ海の涯なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ
       千代八千代棄てたまふなと云ひすててつとわが手枕きはや睡るかな
       春は来ぬ恋のほこりか君を獲てこの月ごろの悲しきなかに
と歌い、百草園を訪ねた後には次のような歌もある。
       樹樹の間に白雲見ゆる梅雨晴の照る日の庭に妻は花植う
       わが妻はつひにうるはし夏たてば白き衣きてやや痩せてけり

 根本海岸・百草園に遊んだ頃が、まさに恋の絶頂期であった。                              <Album2 百草園>へ


 東京都立川市 立川駅北口           立川市曙町2丁目
昭和25年(1950)12月1日除幕<14>
        旅にて詠める   牧水

     立川の驛の古茶屋

       さくら樹のもみぢの

     かげに見送りし子よ

  百草園Tの歌碑「山の雨」の歌が詠まれた明治39年(1906)10月の、百草園に1泊し御嶽・大嶽に登った3泊4日の時の作。10月9日付友人宛の手紙に、「去る木曜日、学校にて美術史の講義をきいて居ると窓の方で切りに手招きするものがある、その日欠席の土岐湖友(善麿)に候、時間の済むのを待つて行つて見れば草鞋脚絆の服装で、是非何処ぞへ行かうと云ふ、だつて斯んなに曇つてる、もう降るぜ、イヤ降つていい、傘も持て来たといふ騒ぎ、とうとう宿に帰つて自分も仕度をして引張り出されてしまひ候、(略)汽車で武蔵野を横切り三夜あまり四日がほどの遠足をあげて昨夜帰京致し候、多く山登りにて、しかも多くは雨中、変つてゐてなかなか興深く候ひし」と書き付けている。

 第1歌集『海の声』および第3歌集『別離』に、「山の雨」に次いで収められている。
    立川の駅の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
    旅人は伏目にすぐる町はずれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな  (日野にて)

 この歌碑は市制施行10年を記念し「郷土立川の(略)遙かなる將來を望む里程表として」(裏面「建碑のことば」)、立川駅から少し離れた目立たない場所に建てられたが、30年頃当時の国鉄北口駅前広場のほぼ中央あたりに移転された。しかし、その後駅前の整備に伴い再び移転案が出たため「守る会」ができて署名運動も行われ、「移転するにしてもとにかく北口広場のどこかに残すということに落ちついたのは、まことに嬉しいことである」と大悟法氏は『牧水歌碑めぐり』(昭和59年刊)に書いている。はたして再度の移転があったものかどうかわからないが、歩道橋の下に忘れられたように立つ姿は、あまり「嬉しい」ものではない。
 書の筆蹟は牧水自身のものがなく、喜志子夫人の手になるものという。                            <Album2 立川>へ    


 東京都世田谷区 兵庫島公園         世田谷区玉川3丁目2-1
昭和63年(1988)2月除幕
    多摩川
         の

      砂にたんぽぽ咲く

    ころはわれにも

        おもふ人の

         あれかし

           若山牧水 




  第4歌集『路上』所収。詞書がないので断定はできないが、歌集には恐らく同じ時の作と思われる歌が14首並んでいる。
       たまたまにただひとりして郊外にわが出て来れば日の曇りたる
       多摩川の浅き流れに石なげてあそべば濡るるわがたもとかな
       春あさく藍もうすらに多摩川のながれてありぬ憂しやひとりは
       多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふ人のあれかし
       川千鳥啼く音つづけば川ごしの二月の山の眼におもり来る
       石拾ひわがさびしさのことごとく乗りうつれとて空へ投げ上ぐ
       友もうし誰とあそばむ明日もまた多摩の川原に来てあそばなむ
       水むすび石なげちらしただひとり河とあそびて泣きてかへりぬ

 石を投げるしか紛らわしようのない「さびしさ」は、具体的には次のように歌われている。
       若き日をささげ尽くして嘆きしはこのありなしの恋なりしかな
       秋に入る空をほたるのゆくごとくさびしやひとの忘られぬかな
       はじめより苦しきことに尽きたりし恋もいつしか終らむとする
       おもかげの移るなかれとひとのうへにいのりしことはまたくあれども
       五年にあまるわれらがかたらひのなかの幾日をよろこびとせむ

 5年にわたる小枝子との恋愛が完全に終わったのは明治44年(1911)5月だということであるが、その直前2月の作である。

 なお、牧水は早稲田に入った明治37年(1904)の5月半ばから脚気で両脚のしびれを覚え、夏休みに入った7月11日から8月7日まで葉山の玉蔵院という寺に転地療養、さらに8月16日からは当時の玉川村瀬田に内田もよという女性を頼って9月18日まで滞在している。二子玉川の隣駅、現在の東急玉川線瀬田駅の近くだという。                                              <Album2 兵庫島>へ


 神奈川県横須賀市 長沢海岸T 夫婦歌碑   横須賀市長沢2丁目
昭和28年(1953)11月3日除幕<16>
    しら鳥は哀しからずや

    そらの青海のあをにも

      そまずたゞよふ    牧水



   うちけぶり鋸山も浮び来と

    今日のみちしほふくらみ寄する

     大正四年秋 北下浦にて詠む 喜志子

 表に牧水、裏面に妻喜志子の歌が刻まれた夫婦歌碑。大正4年(1915)3月、腸結核と診断された喜志子の転地療養のため、牧水一家は当時の北下浦村長沢の斉藤松蔵方に転居(翌年6月には谷重次郎方へ)。約1年9ヶ月ほどをこの地で過ごした。歌碑は、牧水一家の主治医であった田辺医師の子息が早くから建立を計画し、昭和26年(1951)には建設趣意書まで作ったが病床に伏したために断念、その後横須賀観光協会が引き継いで完成させた。歌にちなんでこの海岸を「白鳥海岸」と名付け、観光面で売り出したいというような意図もあったという。初めは、最初に住んだ家にほど近い海岸の松林の中に建てられたが、その後道路ができ、さらに道路拡張のため若山牧水資料館前の歌碑とともに、平成14年(2002)9月現在地に移設された。牧水没後50年をきっかけに、毎年9月には「北下浦牧水まつり」として短歌会や碑前祭が行われている。

 『海の声』巻頭から7首目、『別離』では明治41年(1908)の「女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ、われその傍らにありて夜も昼も断えず歌ふ」一連の中に収められているが、下にもあるように、40年(1907)の雑誌『新声』12月号に発表されており、詠まれた場所等についてはわからない。
 有名な歌ではあるが、ルビや表記が初出と歌集では異なっている。
       白鳥(はくてう)は哀しからずや海の青そらのあをにも染まずたゞよふ     『新声』
       白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ      『海の声』・『別離』

 筆跡は、大正10年(1921)に北原白秋を訪れて痛飲し乞われるまま書いた大幅から採ったものの、三・四句目が「海の青そらのあをにも」となっていたため「海」と「空」とを入れ替えたという。
  
   


 神奈川県横須賀市 長沢海岸U
昭和62年(1987)11月8日除幕

     海越えて鋸山はかすめども

      此処の長浜浪立ちやまず

                牧水詠 旅人書 


若山牧水の歌碑を本市の第五号文学碑として、かっ
ての彼の住居に近い、ここ長沢の海岸に建立する。 
この碑を通じ、明治大正期の偉大な歌人・牧水が、
長沢に住み、幾多の秀歌をのこしたあかしとしたい。
昭和六十二年文化の日
           横須賀市長  横山和夫 識









  第8歌集『砂丘』の「三浦半島」(43首)に「病妻を伴ひ三浦半島の海岸に移住す、三月中旬の事なりき」(4首)として収められている。
     海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず
     ひとすぢに白き辺浪ぞ眼には見ゆ御空も沖も霞みたるかな
     うつうつと霞める空に雲のゐてひとところ白く光りたるかな

 「三月に来て、いつのまにか七月になつた。当時毎日深い霞のなかに沈んでゐた鋸山が、今はまつたく夏の姿になり切つた。この山は此処から見れば誠に風情のある山で、さんざんに切り刻まれた ー この山からは石灰石を盛に切り出す ー 痕さへもそれほど殺風景に映らない。淋しくなれば昼日中でも浜に出てこの山と相対するのが癖になつた。」とは『旅とふる郷』「砂丘の蔭」の一節。当時は東京から船で5時間、船賃19銭だったという。
 「三浦半島」中の他の歌に、 
       昼の井戸髪を洗ふと葉椿のかげのかまどに赤き火を焚く   (妻の病久し)
       昼深み庭は光りつ吾子ひとり真裸体にして鶏追ひ遊ぶ    (吾子旅人)
       近づけば雨の来るとふ安房が崎今朝藍深く近づきにけり   (或朝)
       昼の浜思ひほほけしまろび寝にづんと響きて白浪あがる    (昼の浜)
       黒がねの鋸山に居る雲の昼深くして立ちあへなくに      (夏深し)

 物理学者長岡半太郎の別邸を京浜急行電鉄が修理・復元して横須賀市に寄贈した「長岡半太郎記念館」に「若山牧水資料館」が併設され、その前庭に建立されたが、上記「夫婦歌碑」とともに現在地に移された。                             <Album2 長沢海岸>へ


 神奈川県横須賀市 最光寺         横須賀市野比3丁目9-5
昭和60年(1985)4月11日除幕

       酒出でつ

    庭いちめんの白梅に

     夕日こもれる

      をりからなれや



   友の僧いまだ若けれしみじみと

     梅の老木をいたはるあはれ

             牧水詠旅人書    
  


 第9歌集『朝の歌』「春浅し」の中に、「来福寺にて」と題して2首載っている。大正5年(1916)早春、梅見に招かれた時の作。
       友の僧いまだ若けれしみじみと梅の老木をいたはるあはれ
       酒出でつ庭いちめんの白梅に夕日こもれるをりからなれや
 「春浅し」の中には、「梅咲く」4首、「同く」2首、「梅」7首の他にも梅を詠った歌が多く収められている。また、
       みちのくの雪見に行くと燃え上るこころ消しつつ銭つくるわれは  (或日)
と「残雪行」の旅へのはやる思いも見られる。

 来福寺は、三浦市南下浦町の和田山来福寺で、真宗大谷派に属し、三浦半島を領有していた三浦氏の一族、和田義盛の菩提寺だという。牧水はそこの和田祐憲(当時23歳)と親しかった。最光寺は天正元年(729)行基が現在の茅ヶ崎市に創建し、天文9年(1540)現在地付近に移った浄土真宗大谷派の寺で、祐憲の娘の嫁ぎ先。インターネットの検索によれば境内には魚貝供養塔や多くの石像があるとか。   <Album2 最光寺>へ  


 神奈川県横須賀市 横須賀大津高校    横須賀市大津町4-17-1
昭和61年(1986)6月除幕
    紫陽花の

      花をぞ

        おもふ

    藍ふくむ

        濃き

      むらさきの

     花のこひし
          さ
          
     創立八十周年
         あじさい園完成記念
      昭和六十一年六月吉日
          大津高校 後援会


















  没後10年になる昭和13年に発行された第15歌集『黒松』の「昭和三年」編「曇を憎む」中最後の歌。
       つばくらめ飛びかひ啼けりこの朝の狂ほしきばかり重き曇に
       紫陽花の花をぞおもふ藍ふくむ濃きむらさきの花のこひしさ

 「昭和三年」には、「池の鮒」9首、「雑詠」12首、「『春花譜』と題せし中より」4首、「この頃取り出で用ゐたる」1首、「中村柊花に寄す」1首、「合掌」3首、「麦の秋」10首、「水無月」7首、「曇を憎む」14首、「奉祝」2首、「最後の歌」2首の計65首が収められている。ほぼ制作順かと思われるから、最も遅い時期の作ということになろう。
       妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶て飲み噎せ鼻ゆこぼしつ   (合掌)
       うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり
       足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる
       酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を      (最後の歌)
       芹の葉の茂みがうへに登りゐてこれの小蟹はものたべてをり

 明治39年(1909)横須賀高等女学校として発足した横須賀大津高校(昭和25年学制改革で名称変更)の初代校長は、牧水の孫榎本篁子氏(旅人長女。沼津市若山牧水記念館長)のつれあい尚美氏の母方の祖父にあたり、碑文にあるように創立80周年記念事業の一環として建立されたという。                                                             <Album2 大津高校>へ


 神奈川県川崎市片平 山崎宅        川崎市麻生区片平4-15-2
昭和37年(1962)11月9日除幕<35>
     わが庭の竹の林の淺けれど

      ふる雨みれば春は來にけり  牧水

 最光寺の歌碑と同じ第9歌集『朝の歌』「春浅し」82首の中に、さらに「春浅し」の詞書がつけられた2首がある。大正5年(1916)の早春、といっても2月末には前々年から頭にあった東北地方へ出発するために上京しているから、2月半ば頃までの作か。
       わが庭の竹の林の浅けれど降る雨見れば春は来にけり
       鴬はいまだ来啼かずわが背戸辺椿茂りて花咲き篭る

 碑を建てた山崎斌(あきら)という人は、明治25年(1892)長野県麻績村の本陣・臼井家に生まれ、5歳の時当時の南条村(現 坂城町)の山崎家に養子となる。藤村や牧水・白秋などと親交があり、大正10年(1921)には長編小説「二年間」を著している。また、昭和初年の大恐慌で農村が困窮したことから自ら「草木染」と命名した古来の染色を奨励した人物で、その子に「高松塚古墳女子群像」の服色を再現した青樹氏など、以後山崎家は代々染色の道を究めているという。晩年、片平の住居兼工房を「草木寺」と呼び活動拠点とした。そこの庭に藤村・牧水・凡兆の碑を建てたものである。

 牧水が喜志子に求婚した明治45年(1912)は、3月16日から18日まで山崎方に滞在、その後山本鼎方に落ち着いて上田等で歌会を開いたりもしている。3月の29か30日、麻績で歌会があると誘われた喜志子はそれに参加するが、歌会ならぬ宴会に喜志子は茫然、しかし帰宅するにも汽車がなく、やむなく多少縁故のあった山崎の実家に泊めてもらい翌朝逃げるようにして帰宅する。牧水もその家に宿泊。喜志子の帰った後葉書をしたため、4月2日村井駅で落ち合い、結婚してほしい旨を告げたのだった。小枝子との恋に苦悩のどん底をなめた牧水は、「新生」を求めて、東京を離れる時から喜志子に求婚するつもりであったようだが、山崎はある意味仲人役を果たしたといってもいいだろう。                <Album2 山崎邸>へ