牧水ー碑の詩

中部1 (静岡県1)



 静岡県沼津市 千本浜公園
昭和4年(1929)7月21日除幕<1>

    幾山河

      こえさりゆかば

       寂しさのはてなむ國ぞ

        けふも旅ゆく

                     牧水

            若山牧水歌碑
 歌人若山牧水(本名繁)は明治十八年(一八八五)
宮崎県に生まれた、旧制延岡中学時代から短歌に親
しみ、早稲田大学在学中に中國路を旅し、この「幾山
河」の歌を作った。
 二十四歳のときに出版した歌集「別離」が歌壇に認
められ一躍世に出た牧水は、大正九年(一九二〇)
夏、一家を挙げて沼津に移住した。
 その後千本松原の景観に魅せられこの松原にほど近
い地に新居を構えた、旅と自然に親しみ、酒をこよなく
愛した牧水は調べの美しい多くの名歌を残し、昭和三
年(一九二八)九月十七日四十三歳で永眠した。
 墓所はこの近くの千本山乗運寺にある
 この歌碑は全國で最初の牧水歌碑として昭和四年
七月に建設された。
                       沼 津 市



 没後1年を経ずして建てられた牧水歌碑第1号。大正9年(1920)8月から沼津に移り住んだ
牧水が、「沼津に何のとりえがあるではないが、ただ一つ私の自慢するもの」(「沼津千本松原(U)」)としてあげた千本松原の入り口付近に、どっしりと据えられている。冨士山麓小泉村(現裾野市)からの運搬途中、小さな川の橋を壊したというエピソードがある約15トンの巨石だ。この松原の一部伐採計画がおこった時には、牧水がその反対運動に立ち上がったことでも有名。毎年10月の第3日曜には、牧水祭として「碑前祭・芝酒盛」が行われ、沼津の秋の風物詩となっているという。

 牧水の代表作と言われるこの歌は、百草園の歌碑「山の雨」同様第1歌集『海の声』・第3歌集『別離』の「旅ゆきてうたへる歌・・・」の中に「十首中国を巡りて」(『別離』では9首)として収められている。
       けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く    
       海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭に
       幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
       峡縫ひてわが汽車走る梅雨晴の雲さはなれや吉備の山々
 そして、その後に「二首耶馬溪にて」として
       安芸の国越えて長門にまたこえて豊の国ゆき杜鵑聴く
       ただ恋しうらみ怒りは影もなし暮れて旅篭の欄に倚るとき

 この旅については、大悟法氏の詳細な研究がある。
 明治40年(1907)6月22日、夏休みに入った牧水は友人らと帰省の途につく。4日間ほど京都市内を見物した後、神戸から一人中国地方を巡り、さらに耶馬溪・宇佐神宮と回って、7月14日夜坪谷の生家へと帰り着く、実に22日間の大旅行であった。大悟法氏によれば、「『幾山河』の歌が明治四十年七月二日前後に岡山県の苦坂峠から二本松峠あたりで作られたということだけはまず間違いないだろう」(『幾山河越えさり行かば』)という。そして、いつもは宮崎の細島・神戸間を船で往来していた牧水が初めて中国地方を巡ったことについても、一つには尊敬していた田山花袋推奨の地(新見や高梁川渓谷)への憧れ、そしてもう一つ小枝子との関わりを指摘している。
       恋人のうまれしといふ安芸の国の山の夕日を見て海を過ぐ  (瀬戸にて) 『別離』
 小枝子の出生地については定かならぬところがあるが広島県であり、牧水が帰省する3日前の19日に小枝子が牧水の下宿を訪ねている。その19日のことについて、友人に宛てた手紙が残っている。
    十九日、晴れればと祈つてる、そしたら僕は一日野を彷徨ふつもりだ、一人ではない、が、恋でもない、美人でもない、ただ憐れな運命の裡に住
    んで居るあはれな女性だと想つてくれたまへ、(略)繰返す、恋では決して無い、僕の胸には目下一滴のつゆもないのだ。

 牧水満21歳、まさに恋の始まりの時の歌であった。


 静岡県沼津市 乗運寺
昭和55年(1980)8月19日除幕<90>


  聞きゐつゝたのしくもあるか松風の

   今は夢ともうつつともきこゆ    牧水




   古里の赤石山のましろ雪

   わがゐる春のうみべより見ゆ  喜志子


             牧水略譜
明治十八年八月二十四日宮崎県東臼杵郡東郷村
字坪谷一番戸に医師若山立藏仝じくマキの長男とし
て生まれ繁と命名さる 長じて十八歳のとき文学を志
望して牧水と号す 故郷の母マキ並に庭前の坪谷川
への追憶に由來せるものなり
明治四十五年二十七歳に到り太田喜志子と結婚
以后九年の間に旅人岬子眞木子富士人の二男二
女を挙げ東京に於てその短歌の作風に一家を成せし
も大正九年に到り年來の希望たりし田家の生活を志
して沼津在楊原村上香貫に居を撰み次で大正十三
年千本浜に移りてよりはその四囲環境を愛して終生
こゝを離れず昭和三年に到る その年七月よりにはか
に健康すぐれず九月上旬より臥床仝月十七日永眠
す 時に年四十三歳なりき その一生は芳醇純乎とし
てたゞ自然の憧憬と讃美に終始し 生を享けて四十
年余その途をあやまたざりしもの 此処にその三十三
年忌を迎えて之を誌す
    昭和三十五年九月十七日
                       若山旅人
                     牧 水 會





 「一年一度のものでなく、一生に何度かの大きな正月であつてほしい」とは、昭和3年(1928)の『創作』新年号の「創作社便」に書かれた言葉であるが、牧水はその昭和3年9月17日午前7時58分、沼津市市道町の自宅で永眠した。病名 急性腸胃炎兼肝臓硬変症。享年44。法名 古松院仙誉牧水居士。亡くなる1時間ほど前には朝食として日本酒100cc・卵黄1個・重湯約100ccを摂り、「滅後三日ヲ経過シ而モ当日ノ如キハ強烈ナル残暑ニモ係ラズ、殆ンド何等ノ死臭ナク、又顔面ノ何処ニモ一ノ死斑サヘ発現シ居ラザリキ。(斯ル現象ハ内部ヨリノ『アルコホル』ノ浸潤ニ因ルモノカ。)」と主治医が書き残している「酒仙牧水」の最期だった。喜志子は昭和43年(1968)8月19日午前2時15分、立川市富士見町の自宅にて生涯を閉じた。享年81。ともに、千本松原の植林に尽力した増誉上人が開いた千本山乗運寺に眠る。
 墓前の歌碑は、喜志子十三回忌の法要の際に、長男旅人によって建立された。向かって左が牧水、右が喜志子。

 牧水の歌は第13歌集『くろ土』の「大正七年」中「眼前景情  五月六日駒場村なる曹洞宗大学歌会に招かる、席上より見る郊外の景色甚だ佳し、即ち題として詠む。」6首中の1首。
       をりをりに明るみ見する初夏の曇日の原はそこひ光れり
       をちかたの杉のむらだち真黒くていまは曇の晴れむとすらし
       聞きゐつつ楽しくもあるか松風のいまはゆめともうつつとも聞ゆ
       松の風いまは途絶えつ眺むればをちこちの松黒ずみて見ゆ


 静岡県沼津市香貫山 香陵台
昭和35年(1960)9月18日除幕<27>

    香貫山いたゞきに来て吾子とあそび

      ひさしくをれば富士はれにけり    牧水

 第13歌集『くろ土』所収。「香貫山  八月中旬、東京を引払ひて駿河沼津在なる楊原(やなぎはら)村香貫山の麓に移住す。歌を詠み始めたるは九月半ばなりけむか。」の詞書きで3首。
       海見ると登る香貫の低山の小松が原ゆ富士のよく見ゆ
       香貫山いただきに来て吾子とあそび久しく居れば富士晴れにけり
       低山の香貫に登り真上なるそびゆる富士を見つつ時経ぬ

 大正9年(1920)8月16日から住み始めた香貫の家は、牧水長女の追憶によれば、「部屋数も六つ、七つあったが、敷地が広く、六、七百坪もあったろうか、家の三方に庭があった。(略)往還から門へ入るには小川をまたぐ土橋が渡され、そこに立つと広い田圃をへだてて狩野川の藪土手、そしてその上に富士山と愛鷹山がまともに仰ぎ見られた。南側の茶の間の縁からは庭の向こう槇の生垣越しに畑をへだてて香貫山が青かった。」(石井みさき『父・若山牧水』)という。この家には大正13年(1924)8月まで4年間を過ごし、千本浜の松原の陰に新築中の借家へ転居した。牧水終の棲家となった市道の家には14年(1925)10月5日に引っ越した。500坪の敷地に「雑誌発行室」なども含め計11室の大きな家。しかし、その借金と詩歌総合雑誌『詩歌時代』発行のため、各地で短冊半折の揮毫頒布会を開いた無理がたたって寿命を縮める結果となってしまった。

 海抜194mの香貫山の中腹にある香陵台に立つこの歌碑は、高さ2.7m・幅60p。この歌を書いたものがなく、いろいろな揮毫から集字され、牧水三十三回忌を記念して建立されたものだそうだ。     


 静岡県沼津市戸田 御浜岬
昭和55年(1980)7月29日除幕<89>

             若山牧水

    伊豆の国

    戸田の港ゆ

    船出すと

      はしなく見たれ

      富士の高嶺を

        大正七年二月二十四日


 大正7年(1918)2月7日、第11歌集『さびしき樹木』等の原稿整理の目的で土肥温泉に出かけ、24日帰京する途中の戸田での作。第12歌集『溪谷集』「伊豆の春」に「土肥より汽船にて沼津へ渡らむとし、戸田の港口にて富士を見る」として7首。
       伊豆の国戸田の港ゆ船出すとはしなく見たれ富士の高嶺を
       柴山の入江の崎をうちめぐり沖に出づれば富士は真うへに
       野のはてにつねに見なれしとほ富士をけふは真うえに海の上に見つ
       崎越すと船はかたむきひとごゑもせぬ甲板に富士を見て居る
       見る見るにかたちをかふるむら雲のうへにぞ晴れし冬の富士が嶺

 戸田で写真館を営む菅沼清一という人が、この歌を一人でも多くの人に知ってもらおうと独力で建設を決意したという。     


 静岡県三島市 三島大社
昭和34年(1959)12月6日除幕<24>
    のずゑなる三島のまちのあげ花火

    月夜のそらに散りて消ゆなり
   若山牧水の歌碑
若山牧水は九州宮崎県に生ま
れ大正九年(一九二〇)三島
市の西隣りの沼津市香貫に住
み八月十五日に行われた三嶋
大社の夏祭りの花火を見てこの
歌を詠んだ           
    昭和三十四年十二月 
        三島民報社建立
 第14歌集『山桜の歌』所収。「大正十年」の「秋近し」10首中の第5首。
       畑なかの小径をゆくとゆくりなく見つつかなしき天の河かも
       天の河さやけく澄みぬ夜ふけてさしのぼる月のかげはみえつつ
       野末なる三島の町の揚花火月夜の空に散りて消ゆなり
       愛鷹の根に湧く雲をあした見つゆふべみつ夏のをはりと思ふ
       明け方の山の根にわく真白雲わびしきかなやとびとびに湧く

 「大社の夏祭にうち揚げる花火を家の門口から香貫山の左手の空遙かに眺めたもの」(『牧水歌碑めぐり』)だという。


 静岡県駿東郡清水町 本城山公園
昭和63年(1988)10月除幕
               牧水
   天地のこころ

   あらはにあらはれて

   輝けるかも

   富士の高嶺は

             昭和二年作

         記念碑の由来
 富士の名所清水町本城山公園に
牧水歌碑を建てたいと聞いたときすぐ
心に浮かんだのがこの「天地の」の一
首だった。
 日向生まれの牧水は、富士山にひ
かれて大正九年東京から沼津に移
り、朝夕に親しくその姿を仰いで数々
の名歌を残し、山麓各地に歌碑とな
っているけれど、晩年の代表作と言う
べきこの歌のはまだなく、この近傍の
作ではあるし、ここに立って富士を仰
ぎ讃えるすべての人々にとって、これほ
ど共感を呼ぶ歌はまずあるまいと思う
のである。 (門下 大悟法 利雄)
 寄贈 沼津柿田川ロータリークラブ
     昭和六十三年十月吉日


       



 昭和2年(1927)は、借金返済のため朝鮮半島へも喜志子夫人とともに揮毫行脚。5月4日沼津を出発して釜山・光州・京城・仁川等を回り、7月12日下関上陸。さらに大分・延岡・坪谷を経て沼津に帰り着いたのは
7月31日であった。

 「過労若しくは栄養不良から来た神経衰弱」のため引きこもりがちだった牧水が、12月12日折からの晴天に沼津から三島まで汽車に乗りそれから裾野まで約8qを歩いた、その時の歌が第15歌集『黒松』に収められている。「枯野」9首、「森のひなた」8首、「裾野にて」4首。その「裾野にて」所収。
       夜には降り昼に晴れつつ富士が嶺の高嶺の深雪かがやけるかも
       冬の日の凪めづらしみすがれ野にうち出でて来てあふぐ富士が嶺
       富士が嶺の麓にかけて白雲のゐぬ日ぞけふの峰のさやけさ
       天地のこころあらはにあらはれて輝けるかも富士の高嶺は


 静岡県田方郡函南町畑毛 柿沢川排水機場
昭和63年(1988)10月除幕
    
    長湯して 飽かぬこの湯の

    ぬるき湯に ひたりて安き

    こころなりけり     牧水

                 旅人書
      昭和六十三年十月吉日
            函南町文化協会建之

              紹介文
若山牧水は、畑毛の湯と自然を愛し大正十
一年九月滞在して、二十七首の歌を詠む
畑毛温泉観光協会は、この優れた自然の保
全と良好な環境整備を施し、湯けむりと景観
の美を活かし、安らぎと豊かな情操を育くむ観
光拠点とすべく、村おこし観光元年にちなみ、
この地をいこいの場と、活用をはかる
函南町文化協会もまた、牧水没後六十年を
機に文化に貢献した故人を顕彰し、明日の
文化発展の証しに、その代表作を選び、この
碑を建立する。
     昭和六十三年十月吉日



 大正11年(1922)9月23日より3泊した時の作。第14歌集『山桜の歌』に「畑毛温泉にて」として27首収められている。
       
       わが肌のぬくみといくらもかはらざるぬるきいで湯は澄みて湛へつ
       夜ふけて入るがならひとなりし湯のぬるきもそぞろ安けくてよし
       長湯して飽かぬこの湯のぬるき湯にひたりて安きこころなりけり
       つぎつぎに出でし欠伸もいでずなりて心は澄みぬ夜半の湯槽に
       夜のふけをぬるきこの湯にひたりつつ出でかねてをればこほろぎ聞こゆ

 畑毛温泉には、頼朝が軍馬の疲れを癒した湯との言い伝えがあるそうだが、9月17日名古屋の歌会に出席し19日夜帰宅、10月14日にはいわゆる「みなかみ紀行」の旅に出かけており、その間のつかの間の休息という趣がある。


 静岡県田方郡函南町畑毛 いづみ荘
建立日不明
    
    人の来ぬ

     夜半をよろこびわが浸る

      いでゆあふれて

       音たつるかも  牧水

 大正十一年
  いづみ荘にて

 上の歌碑と同じく大正11年(1922)9月の作。第14歌集『山桜の歌』「畑毛温泉にて」の冒頭の1首。
       
     人の来ぬ夜半をよろこびわが浸る温泉あふれて音たつるかも
     温泉村湯げむり立てり露に伏す田づらの稲の白きあしたを
     うちわたす箱根山なみ山の背のまろきにかかるあかつきの雲
     めづらしき今朝の寒さよおもはざる方には富士の高く冴えゐて
     ゆくりなく聞く遠寺の鐘の音にをさなきこころ湧きてかなしも
       
 いづみ荘は牧水が泊まった宿かと思われるが(『若山牧水伝』では「中華亭に三日ばかり泊って」となっているが)、平成16年(2004)高齢者のデイサービス施設に改造されたようである。