静岡県沼津市 乗運寺 | |||
昭和55年(1980)8月19日除幕<90> |
|||
「一年一度のものでなく、一生に何度かの大きな正月であつてほしい」とは、昭和3年(1928)の『創作』新年号の「創作社便」に書かれた言葉であるが、牧水はその昭和3年9月17日午前7時58分、沼津市市道町の自宅で永眠した。病名 急性腸胃炎兼肝臓硬変症。享年44。法名 古松院仙誉牧水居士。亡くなる1時間ほど前には朝食として日本酒100cc・卵黄1個・重湯約100ccを摂り、「滅後三日ヲ経過シ而モ当日ノ如キハ強烈ナル残暑ニモ係ラズ、殆ンド何等ノ死臭ナク、又顔面ノ何処ニモ一ノ死斑サヘ発現シ居ラザリキ。(斯ル現象ハ内部ヨリノ『アルコホル』ノ浸潤ニ因ルモノカ。)」と主治医が書き残している「酒仙牧水」の最期だった。喜志子は昭和43年(1968)8月19日午前2時15分、立川市富士見町の自宅にて生涯を閉じた。享年81。ともに、千本松原の植林に尽力した増誉上人が開いた千本山乗運寺に眠る。 墓前の歌碑は、喜志子十三回忌の法要の際に、長男旅人によって建立された。向かって左が牧水、右が喜志子。 牧水の歌は第13歌集『くろ土』の「大正七年」中「眼前景情 五月六日駒場村なる曹洞宗大学歌会に招かる、席上より見る郊外の景色甚だ佳し、即ち題として詠む。」6首中の1首。 をりをりに明るみ見する初夏の曇日の原はそこひ光れり をちかたの杉のむらだち真黒くていまは曇の晴れむとすらし 聞きゐつつ楽しくもあるか松風のいまはゆめともうつつとも聞ゆ 松の風いまは途絶えつ眺むればをちこちの松黒ずみて見ゆ |
|||
|
静岡県沼津市香貫山 香陵台 | ||
昭和35年(1960)9月18日除幕<27> |
||
第13歌集『くろ土』所収。「香貫山 八月中旬、東京を引払ひて駿河沼津在なる楊原(やなぎはら)村香貫山の麓に移住す。歌を詠み始めたるは九月半ばなりけむか。」の詞書きで3首。 海見ると登る香貫の低山の小松が原ゆ富士のよく見ゆ 香貫山いただきに来て吾子とあそび久しく居れば富士晴れにけり 低山の香貫に登り真上なるそびゆる富士を見つつ時経ぬ 大正9年(1920)8月16日から住み始めた香貫の家は、牧水長女の追憶によれば、「部屋数も六つ、七つあったが、敷地が広く、六、七百坪もあったろうか、家の三方に庭があった。(略)往還から門へ入るには小川をまたぐ土橋が渡され、そこに立つと広い田圃をへだてて狩野川の藪土手、そしてその上に富士山と愛鷹山がまともに仰ぎ見られた。南側の茶の間の縁からは庭の向こう槇の生垣越しに畑をへだてて香貫山が青かった。」(石井みさき『父・若山牧水』)という。この家には大正13年(1924)8月まで4年間を過ごし、千本浜の松原の陰に新築中の借家へ転居した。牧水終の棲家となった市道の家には14年(1925)10月5日に引っ越した。500坪の敷地に「雑誌発行室」なども含め計11室の大きな家。しかし、その借金と詩歌総合雑誌『詩歌時代』発行のため、各地で短冊半折の揮毫頒布会を開いた無理がたたって寿命を縮める結果となってしまった。 海抜194mの香貫山の中腹にある香陵台に立つこの歌碑は、高さ2.7m・幅60p。この歌を書いたものがなく、いろいろな揮毫から集字され、牧水三十三回忌を記念して建立されたものだそうだ。 |
||
|
静岡県沼津市戸田 御浜岬 | ||
昭和55年(1980)7月29日除幕<89> |
||
大正7年(1918)2月7日、第11歌集『さびしき樹木』等の原稿整理の目的で土肥温泉に出かけ、24日帰京する途中の戸田での作。第12歌集『溪谷集』「伊豆の春」に「土肥より汽船にて沼津へ渡らむとし、戸田の港口にて富士を見る」として7首。 伊豆の国戸田の港ゆ船出すとはしなく見たれ富士の高嶺を 柴山の入江の崎をうちめぐり沖に出づれば富士は真うへに 野のはてにつねに見なれしとほ富士をけふは真うえに海の上に見つ 崎越すと船はかたむきひとごゑもせぬ甲板に富士を見て居る 見る見るにかたちをかふるむら雲のうへにぞ晴れし冬の富士が嶺 戸田で写真館を営む菅沼清一という人が、この歌を一人でも多くの人に知ってもらおうと独力で建設を決意したという。 |
||
|
静岡県三島市 三島大社 | |||
昭和34年(1959)12月6日除幕<24> |
|||
畑なかの小径をゆくとゆくりなく見つつかなしき天の河かも 天の河さやけく澄みぬ夜ふけてさしのぼる月のかげはみえつつ 野末なる三島の町の揚花火月夜の空に散りて消ゆなり 愛鷹の根に湧く雲をあした見つゆふべみつ夏のをはりと思ふ 明け方の山の根にわく真白雲わびしきかなやとびとびに湧く 「大社の夏祭にうち揚げる花火を家の門口から香貫山の左手の空遙かに眺めたもの」(『牧水歌碑めぐり』)だという。 |
|||
|
静岡県駿東郡清水町 本城山公園 | |||
昭和63年(1988)10月除幕 |
|||
昭和2年(1927)は、借金返済のため朝鮮半島へも喜志子夫人とともに揮毫行脚。5月4日沼津を出発して釜山・光州・京城・仁川等を回り、7月12日下関上陸。さらに大分・延岡・坪谷を経て沼津に帰り着いたのは 7月31日であった。 「過労若しくは栄養不良から来た神経衰弱」のため引きこもりがちだった牧水が、12月12日折からの晴天に沼津から三島まで汽車に乗りそれから裾野まで約8qを歩いた、その時の歌が第15歌集『黒松』に収められている。「枯野」9首、「森のひなた」8首、「裾野にて」4首。その「裾野にて」所収。 夜には降り昼に晴れつつ富士が嶺の高嶺の深雪かがやけるかも 冬の日の凪めづらしみすがれ野にうち出でて来てあふぐ富士が嶺 富士が嶺の麓にかけて白雲のゐぬ日ぞけふの峰のさやけさ 天地のこころあらはにあらはれて輝けるかも富士の高嶺は |
|||
|
静岡県田方郡函南町畑毛 柿沢川排水機場 | |||
昭和63年(1988)10月除幕 |
|||
大正11年(1922)9月23日より3泊した時の作。第14歌集『山桜の歌』に「畑毛温泉にて」として27首収められている。 わが肌のぬくみといくらもかはらざるぬるきいで湯は澄みて湛へつ 夜ふけて入るがならひとなりし湯のぬるきもそぞろ安けくてよし 長湯して飽かぬこの湯のぬるき湯にひたりて安きこころなりけり つぎつぎに出でし欠伸もいでずなりて心は澄みぬ夜半の湯槽に 夜のふけをぬるきこの湯にひたりつつ出でかねてをればこほろぎ聞こゆ 畑毛温泉には、頼朝が軍馬の疲れを癒した湯との言い伝えがあるそうだが、9月17日名古屋の歌会に出席し19日夜帰宅、10月14日にはいわゆる「みなかみ紀行」の旅に出かけており、その間のつかの間の休息という趣がある。 |
|||
|
静岡県田方郡函南町畑毛 いづみ荘 | |||
建立日不明 |
|||
上の歌碑と同じく大正11年(1922)9月の作。第14歌集『山桜の歌』「畑毛温泉にて」の冒頭の1首。 人の来ぬ夜半をよろこびわが浸る温泉あふれて音たつるかも 温泉村湯げむり立てり露に伏す田づらの稲の白きあしたを うちわたす箱根山なみ山の背のまろきにかかるあかつきの雲 めづらしき今朝の寒さよおもはざる方には富士の高く冴えゐて ゆくりなく聞く遠寺の鐘の音にをさなきこころ湧きてかなしも いづみ荘は牧水が泊まった宿かと思われるが(『若山牧水伝』では「中華亭に三日ばかり泊って」となっているが)、平成16年(2004)高齢者のデイサービス施設に改造されたようである。 |