牧水ー碑の詩

関東1 (群馬県・埼玉県)



 群馬県吾妻郡 暮坂峠詩碑
昭和32年(1957)10月20日除幕<21>
         枯野の旅   若山牧水

     乾きたる
     落葉の中に栗の実を
     湿りたる
     朽葉がしたに橡の実を
     とりどりに
     拾ふともなく拾ひもちて
     今日の山路を越えて来ぬ

     長かりし今日の山路
     楽しかりしけふの山路
     残りたる紅葉は照りて
     餌に餓うる鷹もぞ啼きし

     上野の草津の湯より
     沢渡の湯に越ゆる道
     名も寂し暮坂峠




       上州の山川を深く愛した歌人若山牧水は
         大正十一年十月十九日、草津から小雨
         を経て沢渡に向ったが、途中花敷温泉に
         下って一泊、翌二十日、この峠を越えて
         この長詩を残した。 



 牧水唯一の詩碑であり、おそらく最も大きなモニュメント。上の牧水像は昭和62年(1987)に作り替えられ、元の像は中之条町歴史民俗資料館に展示されているという。詩は随筆集『樹木とその葉』に収められている。

 大正11年(1922)10月、長野県佐久での短歌会に講師として参加した牧水が、草津・四万・法師といった温泉に立ち寄りながら利根川の源流地域を回り、金精峠を経て中禅寺湖方面に抜けた「みなかみ紀行」の旅での作。牧水の旅がもとになって、今このルートは「日本ロマンチック街道」と呼ばれ、毎年10月20日には碑の前で「牧水まつり」が行われている。しかし牧水自身は、「昨日の通りに路を急いでやがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打続いた暮坂峠の大きな沢に出た。峠を越えて約三里、正午近く沢渡温泉に着き、正栄館といふのゝ三階に上つた。」(『みなかみ紀行』)と、ほとんど素通り状態。歌も残されていない。標高1088m、前夜泊まった花敷温泉を足下の暗いうちに出発した時ははだらに雪が積もっていたというから、先を急いだか。

 牧水は「河の水上といふものに不思議な愛着を感ずる癖を持つてゐる。一つの流に沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があつて小さな瀬を作りながら流れ出してゐる、といふ風な所に出会ふと、胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であつた。」(『みなかみ紀行』)と書き、大正7年(1918)11月には「ひとつ利根川のみなかみを尋ねて見ようと」水上温泉から湯桧曽まで遡り、さらには関東の耶馬溪と言われる吾妻渓谷などを回っている。この『みなかみ紀行』の旅も、「片品川の奥に分け入らうと云ふのは実は今度の旅の眼目であつた」と言っている。7年の旅の歌は第13歌集『くろ土』に「みなかみへ」と題して159首収められ、まさに「みなかみ」への憧れが強く表れている。  <Album1 暮坂峠>へ


 埼玉県所沢市神米金 若山信市宅
昭和53年(1978)11月8日除幕<80>
               牧水

     のむ湯にも

       焚火の煙

          匂ひたる

       山家の冬の

        ゆふげなりけり

医師若山健海は文化八年この地に生まれ、嘉永
二年長崎に種痘の伝わるや率先して蘭人モーニ
ッケに学び、その普及に尽くした西洋医術伝来史
上の輝かしい先覚者。その孫として宮崎県東郷村
坪谷に生まれた牧水は、中学時代から短歌に志し
上京早稲田大学に入るにおよんで、祖父の生家を
なつかしみ数回ここに訪れ、のち大成して万人に
愛誦される幾多の名歌を遺した。(大悟法利雄識)
      昭和五十三年十一月吉日
             若山牧水の歌碑を建てる会





  大悟法氏によれば、若山家の遠祖は「若山主計」という甲斐武田氏の家臣(喜志子夫人の実家太田家の祖も同じく武田氏家臣だったとか)で、武田家滅亡の折姫君を助けて武州へ落ち延びてきたものという。そして健海の4代前から分家してこの土地に移り住み、名主のもと代々「組長」として新田開拓に従事するとともに、健海の曾祖父は医師にして書道指南の記録もあって、単なる農家ではなく医師・文筆に縁の深い家柄であった。(家の裏手が村の鎮守八雲神社であるというのも、若山家の位置を示しているように思われる。)

 牧水の祖父健海は、父親が2歳たらずの時に死亡、母も間もなく他家に嫁してしまう。そんな関係もあってか「幼時から江戸に出て両国の生薬屋に奉公」(牧水『おもひでの記』)さらには「身延山詣でと称して自宅を出で」(同上)長崎に渡って西洋医学を学び、26歳の時に宮崎は坪谷に医院を開く。その後種痘の法を学び実施、出奔後再び故郷に帰ることはなかった。しかし明治10年の西南の役に官軍の一隊が健海の家に宿泊、中に健海の生家に近い人があって、それがきっかけで消息が交わされることとなった。「彼は極めて謹厳で酒を嗜まず、頗る文字を愛し、殊に漢籍を好み、自ら漢詩を作っていた」(『若山牧水伝』)ちなみに、牧水の酒好きは祖母カメ・父立蔵・母マキの血を引くもののようだ。

 歌は第12歌集『渓谷集』に、「秩父の秋  十一月のなかば、打続きたる好晴に乗じ秩父なる山より渓を歴巡る、その時の歌。」として96首収められているうちの1首。大正6年(1917)のことである。
       夕餉にと鹹鮭焼ける杉の葉のにほひ寒けき渓ぞひの宿
       厨にて焚ける杉の葉板戸漏り煙りきたりて涙をさそふ
       飲む湯にも焚火のけむり匂ひたる山家の冬の夕餉なりけり

 この碑の建立については、昭和35・36年頃所沢市長や郷土史家などが若山家8代目諏訪太郎氏の協力を得て屋敷内に建立する運びであったが、関係者の相次ぐ物故で途絶。それが牧水没後50年の昭和53年に健海と牧水の顕彰の碑を建設する運動が改めてもちあがり、若山牧水の歌碑を建てる会が結成されて竣工をみたとの案内板がある。                                                                             <Album1 若山邸>へ


 埼玉県秩父郡長瀞町 長生館
昭和41年(1966)11月3日除幕<48>
     長瀞長生館にて

    溪の音

      遠く澄み
           ゐて

         春の夜の

    あけやらぬ庭尓

      うくひ須の
            なく



         牧水

      若山牧水紀行の一節       
             大正九年四月記  
起き上つて縁側に出て見ると矢張晴れてゐた
まだ日の光のとほらぬ青空に風の出るらしい雲
が片寄つて浮んではゐるが實に久しぶりに見る
爽かさである少し寒いのを我慢して立つてゐる
と何處で啼くのか實にいろ\/な鳥が啼いて
ゐる
      昭和四十一年秋   無門書  
                   福翁彫


 「桜の咲かうといふ季節に、実に根気よく今年は雨が降り続いた。つくづくそれに飽き果てた末、何処でもいいから何処か冷たアいところへ行きたい、さう思ひ」「兎も角も東京を離れて見度い」(「溪より溪へ」)思いで秩父を訪れたのは大正9年(1920)4月のこと。

 第13歌集『くろ土』に「秩父の春」として39首収められたその詞書が、この旅の概要を語っている。
   四月六日、秩父の春を見て来むとて出で立つ、熊谷駅乗換秩父線に移る。 (7首)
   その夜秩父長瀞なる渓谷の宿に泊る、明くれば数日来の雨全く晴れて鶯頻りに啼く。 (6首)
   秩父町にて少憩、其処より表秩父に出でむとして妻坂峠を越ゆ、思ひの外の難路なり。 (9首)
   辛く峠に出で嶮しきをやや下りゆけばまたひとつの渓に沿ひたり、名栗川の上流なり。 (5首)
   一夜を小さき鉱泉宿に過し翌日名栗川に沿うて飯能町に出づ、川小さけれど岩清く水澄みたり。 (12首)

       乗換の汽車を待つとて出でて見つ熊谷土堤のつぼみ桜を   (四月六日・・・ 熊谷駅附近)
       雨ぐもり重き蕾の咲くとしてあからみなびく土堤の桜は
       渓の音ちかく澄みゐて春の夜の明けやらぬ庭にうぐひすの啼く  (その夜・・・)
       部屋にゐて見やる庭木の木がくれに溪おほらかに流れたるかな
       朝あがりしめれる庭にたけひくき若木の梅の花散らしたり

 歌碑の裏面に一節が刻まれた紀行文「溪より溪へ」には「宝登山駅に着くと私は汽車を降りた。そして車中で聞いて来た渓端の宿長生館といふに行く。芸者なども置いてある料理屋兼旅館といふので多少心配して来たのであつたが、部屋に通されて見ると意外にもひつそりしてゐる。障子をあけると疎らな庭木立をとほして直ぐ渓が見えた。」とあるが、歌の第二句は歌碑と同じ「とほく澄みゐて」になっている。歌碑の筆蹟は喜志子夫人。
 なお、ここの景については「此処がいはゆる秩父の赤壁とか長瀞とか耶馬溪とか呼ばれてゐる所なのである。唯だ通りがかりに見るには一寸眼をひく場所だが、そんな名称を付せられて見るとまるで子供だましとしか感ぜられない。」(「溪より溪へ」)と手厳しい。

 次の羊山公園・飯能市民会館歌碑の歌も、同じく「秩父の春」所収で、この後に続くものである。                              <Album1 長生館>へ


 埼玉県秩父市 羊山公園
昭和31年(1956)1月15日除幕<17>
        牧水詠

     秩父町

       出はづれ来れば

          機をりの

      うた聲つづく

          古りし家並に

         昭和三十年初秋
                   喜志子書
 
 長生館の歌に続く、『くろ土』「秩父の春」中「秩父町にて少憩、其処より表秩父に出でむとして妻坂峠を越ゆ、思ひの外の難路なり。」の1首。
       秩父町出はづれ来れば機織の唄ごゑつづく古りし家並に
       朝晴のいつかくもりて天雲の峰に垂りつつ蛙鳴くなり
       つぎつぎに継ぎて落ちたぎち杉山のながき峡間を落つる溪見ゆ
       菅山のいただき近く枯菅の枯れなびくところ岩が根の見ゆ

 「溪より溪へ」によれば、4月7日はまず汽車で秩父町へ出る。ちょうど馬車もあったが、「今日は私は歩き度かつた」「いろいろ考へた末、道も細く山も険しいといふ妻坂峠を越えて名栗川の方へ出る事に決心」して7里の道を歩き出す。付近第一の高山武甲山の頂上までもと思うものの、「此頃あまり元気でもない身体」で断念。峠も険しく「履いて来た日和下駄をぬいで、跣足になりながら這ふ様にして登る。」下りにはいると思いがけない道連れもできて、割に早く麓の村に着く。それでも鉱泉旅館名栗館に宿ったのは午後7時。「その時はもう階子段を上るにも手離しでは登り得ぬ程疲れてゐた。」とある。

 この歌碑は昭和31年に市内本町の織物組合の前に建立されたが、その後何回か移転され、現在地に移転除幕されたのは昭和54年(1979)9月28日という。公園内には人工の「牧水の滝」もある。                                        <Album1 羊山公園>へ


 埼玉県飯能市 市民会館
昭和36年(1961)6月10日除幕<30>
     志ら\/と

       流れて遠き

           杉山の

         峡のあさ瀬尓

          河鹿鳴く
              な里

             喜志子書

牧水歌碑
大正九年に飯能を
訪れたとき詠まれた歌

  同じく『くろ土』「秩父の春」中「一夜を小さき鉱泉宿に過し翌日名栗川に沿うて飯能町に出づ、川小さけれど岩清く水澄みたり。」の歌。
       わかし湯のラヂウムの湯はこちたくもよごれてぬるし窓に梅咲き
       溪ばたの老木の梅は荒き瀬のとびとびの岩に散りたまりたり
       しらじらと流れてとほき杉山の峡の浅瀬に河鹿なくなり
       ところどころ枯草のこる春の日の溪の岩原に鶺鴒の啼く
       蛙鳴く田なかの道をはせちがふ自転車の鈴なりひびくかな

 4月8日、峠を越えて多摩川上流に出ようという予定は疲れと足痛のためとりやめ、一日休んで明日飯能に向かおうと決めたものの、昼頃から宿に村人が大勢集まってきて騒ぐのに耐えきれず、また予定を早めて飯能まで歩き、終列車で帰宅する。

 そもそもは国民宿舎覧山荘の前庭に建立されたが、その後隣接地に市民会館ができ現在地に移されたという。   <Album1 飯能市民会館>へ


 埼玉県飯能市下名栗 名栗温泉大松閣
平成2年(1990)10月除幕

     ちろちろと岩つたふ水に

          這ひあそぶ

         赤き蟹ゐて杉の山静か


 歌を愛し酒を愛し旅を愛した、純朴な最も歌人らし
い歌人として広く親しまれているのが若山牧水であ
る。牧水は明治十八年(一八八五年)に宮崎県の
山村に生まれ、昭和三年(一九二八年)に四十四
歳で静岡県沼津に歿した。早稲田大学英文科卒。
尾上柴舟の門下。旅を愛し自然に親しみ牧水調と
いわれる歌風を築き、自然主義歌人として活躍し
た。「海の声」「別離」「渓谷集」など十五冊の歌集
に総計六千八百九十八首が収められている。
 各地を遍歴した牧水は大正年間にしばしば名栗、
秩父を歩き当地名栗温泉にも宿泊し多くの歌を残し
ている。なお牧水の祖父健海は所沢の出身である。
    平成二年十月
            若山牧水の歌碑を建てる会








 所沢の歌碑の歌と同じ『渓谷集』「秩父の秋」の中の1首。
 大正6年(1917)11月12日、長雨の続いたあとあまりによく晴れたので、一泊のつもりで出かけたものの、入間川の渓谷に魅せられ4日間ほど秩父方面を歩く。名栗には14日に宿泊。
 『文章世界』新年号に「渓百首」として発表され、『渓谷集』の中心をなす一連となっている。

       朝雲の散りのかすけさ秋冴えし遠嶺に寄ると見れば消えつつ
       石越ゆる水のまろみを眺めつつこころかなしも秋の溪間に
       ちろちろと岩つたふ水に這ひあそぶ赤き蟹ゐて杉の山静か
       長雨のあとの秋日を忙しみひとの来ぬちふ溪の奥の温泉
       秋の溪温泉とはいへど断崖に滴る引きてやがてわかす湯
       溪おくの温泉の宿の間ごと間ごとひとも居らぬに秋の日させり

 名栗温泉は承久年間(1219〜21)に発見されたと伝えられ、昭和2年(1927)・4年(1929)には与謝野鉄幹・晶子夫妻も訪れているとのこと。
                                                                    <Album1 名栗温泉>へ