千葉県いすみ市大原 八幡岬城山青年館前 | |||
昭和58年(1983)11月30日除幕<96> |
|||
大正6年(1917)11月4日間ほど秩父地方を歩き「秩父の秋」100首近くを詠んだ後の27日、大原海岸に出かけ2泊。この歌はその時のものである。 第12歌集『渓谷集』に「上総の海 十一月末、上総国大原海岸に遊ぶ」として、「途すがら」8首、「きりぎし」4首、「浪の歌」18首、「旅館」7首、「八幡岬に在りて図らず満月を見る」10首、「同じ処にて老漁師より鮪つきの話を聞く」8首の計55首を収める。 ありがたやけふ満つる月と知らざりしこの大き月海にのぼれり 断崖の草かきわけて登りたれ思ひきやこの月を見むとは 断崖の端に立てれば月ひとつわれを照らして海どよもせり 霜月の満ちぬる月の沖辺より昇り来りてこの海寒し うすいろの大あめつちと今を見よひんがしの海に月さしのぼる 歌碑裏面の撰文にある大正8年(1919)は、12月20日に訪れ数泊している。第13歌集『くろ土』に「上総八幡崎」と題して20首収録されている。 断崖の岩うちそぎて建てられし宿屋のにはに浪うちあがる (その一) めざめつつ静まりをれば朝日さす海のきらめき部屋を染めたり (その二) ひもすがら冬日さしたるこの部屋に旅のこころか疲れてゐたり (その三) 入江なる岩に日のさし浪くだけつばらに見れば雀子のゐる (その四) 海人どもの若きたはむれ老いたるは専念に釣る断崖の端に (その五) 歌碑の立つ所は戦国時代の城址で、明治末から終戦直後までは牧水の泊まった帆万千館という旅館があったという。多くの文人墨客が訪れたなかで、とりわけ牧水歌碑を当時の町が建立したという点で珍しい歌碑である。筆蹟は土地の書家の手になる。 |
|||
|
千葉県東金市 野呂パーキングエリア | |||
建立日不明 |
|||
千葉東金道路・野呂パーキングエリア(上り側)に設けられた「文学の森」の表示板には、次のようにある。 温暖な気候、風光明媚な海岸線など豊かな自然環境に恵まれた房総は、昔から多くの作家たちの心を引きつけ、数多くの生み出す舞台となってきました。そこでここ野呂PAに房総ゆかりのある数々の名作、そして作家たちを紹介した碑を設置し、「文学の森」と名づけました。 碑は9基。 @「上総の勝浦」で愛を歌った 与謝野晶子 A旅を愛し、酒を愛した詩人 若山牧水 B御宿の砂丘と童謡「月の砂漠」 加藤まさを C小説「真実一路」の舞台大原海岸 山本有三 D外房州長者町の人情にふれて 林芙美子 E九十九里、成東町生まれの歌人 伊藤左千夫 F小説「海のほとり」に描かれた一宮海岸 芥川龍之介 G「宵待草」の舞台、外房の浜辺 竹久夢二 H千葉県が生んだ童謡作家 齋藤信夫 |
|||
|
千葉県野田市 キッコーマン(株)研究開発本部 | |||
昭和44年(1969)11月14日除幕<54> |
|||
宣伝用に頼まれ、昭和2年(1927)の朝鮮旅行中に京城で揮毫したものという。 同社の創立50周年記念として建立された。 おのづからよろづの味のもととなる亀甲萬のむらさきぞ濃き (「亀甲萬」讃歌) 趣旨はまったく違うが、商品名が詠まれているものに次の歌がある。 とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶あふれ出づ 『別離』(『海の声』では、結句「あふれ出る」) |
|||
|
千葉県香取郡多古町 市原正夫宅 | |||
昭和57年(1982)8月29日除幕<94> |
|||
大正14年(1925)は新居建築等のための資金集めのため、各地で揮毫頒布会を行っているが、8月には4日 に新居の上棟式をすませた後21日から千葉県に入っている。『創作』10月号の「創作社便」には「廿三日佐倉町に到り、歌会半折会開催。廿四日成田不動に参詣して三里塚を横切り多古町着、細野春翠君の宿蔦屋に落着き、翌日より揮毫にかかり、廿七日同じく歌会半折会を開いた。そして廿八日、東京を素通りして帰宅した。」と記している。 「蔦屋」というのは市原家の屋号で、当時門下の細野春翠が小学校長としてこの家に下宿していた縁で宿泊したものという。夫妻の歌は、28日の即詠で歌集には載っていない。 牧水夫妻が4泊したことを誇りとしていた先代夫妻の没後、その志をついで建立したという。 はるけく日はさし昇り千田町のたり穂の露はかがやけるかも 歌碑裏面の撰文では8月28日になっているが、翌日が日曜日だったので除幕式は29日に行ったという。 |
|||
|
東京都日野市 百草園T | |||
昭和46年(1971)11月20日除幕<62> |
|||
◆ 山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯かな (百草山にて) 第1歌集『海の声』および第3歌集『別離』の、「旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ 出にたよりよかれとて」という一連(「十首中国を巡りて」ーー有名な「幾山河」の歌を含むーーや「二十六首南日向を巡りて」など、まさに各地の旅の歌)の最初に収められている。 これは明治39年(1906)10月、早稲田の級友土岐善麿に誘われ、武蔵野から御嶽・大嶽と歩いた時の作。百草園には5日の日1泊している。 牧水が百草園を初めて訪れた時期ははっきりしないが、少なくとも明治38年(1905)の秋か39年の初めには郷里の友人と一緒に訪ねているという。以後、まさにしばしば訪れては石坂という茶店に泊まっている。大悟法氏によれば、『別離』の巻頭歌 水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山の昼を は、39年4月に百草園に数日滞在した時の作と推定されている。「山と云つても岡です、(略)武蔵野の平原は地平につづくまで眼下に展開せられてゐます、地平から地平に横たはつて居るほの白い多摩の川、それも岡の麓に見ることが出来るのです、東京に近い割合に一体の空気(こころもち)が深山です」という友人宛の手紙をあげながら。 ◆ 摘みてはすて摘みてはすてし野のはなの我等があとにとほく続きぬ 第2歌集『独り歌へる』・『別離』所収。 うちしのび夜汽車の隅にわれ座しぬかたへに添ひてひとのさしぐむ に始まる「或る時に」の詞書がある13首中の1首。明治41年(1908)4月25日、『海の声』の編集をすませ小枝子とここに2泊した時の作。牧水22歳、早稲田の卒業を7月に控えた時であった。小枝子23歳。次の「百草園U」の歌碑の歌と同時作。 ◆ 拾ひつるうす赤らみし梅の実に木の間ゆきつつ歯をあてにけり 『独り歌へる』・『別離』の「六七月の頃を武蔵多摩川の畔なる百草山に送りぬ、歌四十三首」(実際は46首)中の一首。明治42年(1909)6月19日から7月15日までの約1ヶ月間、牧水は『独り歌へる』編集のため一人滞在した。恋は破綻に瀕していた。そしてこれ以後再びここを訪れることはなかった。 とびとびに落葉せしごとわが胸にさびしさ散りぬ頬白鳥の啼く 別るべくなりてわかれし後の日のこのさびしさをいかに追ふべき かなしきは夜のころもに更ふる時おもひいづるがつねとなりぬる 鋭くもわかき女を責めたりきかなしかりにしわがいのちかな わがこころ静かなる時につねに見ゆ死といふもののなつかしきかな |
|||
|
日野市 百草園U 生誕百周年建立歌碑 | |||
昭和60年(1985)11月24日除幕 |
|||
「百草園歌碑T」の2首目と同じ明治41年(1908)4月25日夜、小枝子を伴って百草園を訪れた時の作。『独り歌へる』『別離』所収。 野のおくの夜の停車場を出でしときつとこそ接吻をかはしてしかな (或る時に) 山はいま遅き桜のちるころをわれら手とりて木の間あゆめり 木の芽摘みて豆腐の料理君のしぬわびしかりにし山の宿かな 春の日の満てる木の間にうち立たすおそろしきまでひとの美し 小鳥よりさらに身かろくうつくしく哀しく春の木の間ゆく君 静かなる木の間にともに入りしときこころしきりに君を憎めり 根本海岸で新年を迎えて東京に戻ってから間もない頃 君を得ぬいよいよ海の涯なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ 千代八千代棄てたまふなと云ひすててつとわが手枕きはや睡るかな 春は来ぬ恋のほこりか君を獲てこの月ごろの悲しきなかに と歌い、百草園を訪ねた後には次のような歌もある。 樹樹の間に白雲見ゆる梅雨晴の照る日の庭に妻は花植う わが妻はつひにうるはし夏たてば白き衣きてやや痩せてけり 根本海岸・百草園に遊んだ頃が、まさに恋の絶頂期であった。 |
|||
|
東京都立川市 立川駅北口 | ||
昭和25年(1950)12月1日除幕<14> |
||
百草園Tの歌碑「山の雨」の歌が詠まれた明治39年(1906)10月の、百草園に1泊し御嶽・大嶽に登った3泊4日の時の作。10月9日付友人宛の手紙に、「去る木曜日、学校にて美術史の講義をきいて居ると窓の方で切りに手招きするものがある、その日欠席の土岐湖友(善麿)に候、時間の済むのを待つて行つて見れば草鞋脚絆の服装で、是非何処ぞへ行かうと云ふ、だつて斯んなに曇つてる、もう降るぜ、イヤ降つていい、傘も持て来たといふ騒ぎ、とうとう宿に帰つて自分も仕度をして引張り出されてしまひ候、(略)汽車で武蔵野を横切り三夜あまり四日がほどの遠足をあげて昨夜帰京致し候、多く山登りにて、しかも多くは雨中、変つてゐてなかなか興深く候ひし」と書き付けている。 第1歌集『海の声』および第3歌集『別離』に、「山の雨」に次いで収められている。 立川の駅の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ 旅人は伏目にすぐる町はずれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな (日野にて) この歌碑は市制施行10年を記念し「郷土立川の(略)遙かなる將來を望む里程表として」(裏面「建碑のことば」)、立川駅から少し離れた目立たない場所に建てられたが、30年頃当時の国鉄北口駅前広場のほぼ中央あたりに移転された。しかし、その後駅前の整備に伴い再び移転案が出たため「守る会」ができて署名運動も行われ、「移転するにしてもとにかく北口広場のどこかに残すということに落ちついたのは、まことに嬉しいことである」と大悟法氏は『牧水歌碑めぐり』(昭和59年刊)に書いている。はたして再度の移転があったものかどうかわからないが、歩道橋の下に忘れられたように立つ姿は、あまり「嬉しい」ものではない。 書の筆蹟は牧水自身のものがなく、喜志子夫人の手になるものという。 |
||
|
東京都世田谷区 兵庫島公園 | ||
昭和63年(1988)2月除幕 |
||
第4歌集『路上』所収。詞書がないので断定はできないが、歌集には恐らく同じ時の作と思われる歌が14首並んでいる。 たまたまにただひとりして郊外にわが出て来れば日の曇りたる 多摩川の浅き流れに石なげてあそべば濡るるわがたもとかな 春あさく藍もうすらに多摩川のながれてありぬ憂しやひとりは 多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふ人のあれかし 川千鳥啼く音つづけば川ごしの二月の山の眼におもり来る 石拾ひわがさびしさのことごとく乗りうつれとて空へ投げ上ぐ 友もうし誰とあそばむ明日もまた多摩の川原に来てあそばなむ 水むすび石なげちらしただひとり河とあそびて泣きてかへりぬ 石を投げるしか紛らわしようのない「さびしさ」は、具体的には次のように歌われている。 若き日をささげ尽くして嘆きしはこのありなしの恋なりしかな 秋に入る空をほたるのゆくごとくさびしやひとの忘られぬかな はじめより苦しきことに尽きたりし恋もいつしか終らむとする おもかげの移るなかれとひとのうへにいのりしことはまたくあれども 五年にあまるわれらがかたらひのなかの幾日をよろこびとせむ 5年にわたる小枝子との恋愛が完全に終わったのは明治44年(1911)5月だということであるが、その直前2月の作である。 なお、牧水は早稲田に入った明治37年(1904)の5月半ばから脚気で両脚のしびれを覚え、夏休みに入った7月11日から8月7日まで葉山の玉蔵院という寺に転地療養、さらに8月16日からは当時の玉川村瀬田に内田もよという女性を頼って9月18日まで滞在している。二子玉川の隣駅、現在の東急玉川線瀬田駅の近くだという。 |