宮崎県延岡市 延岡高校 | |||
昭和32年(1957)9月17日除幕<20> |
|||
昭和23年(1948)旧制延岡中学校が県立延岡恒富高校となり、34年(1959)4月延岡高校と改称。胸像は昭和38年3月に建てられたという。 歌は、大正11年(1922)3月28日湯ヶ島温泉に出かけ、湯本館に3週間ほど滞在した時の作で、第14歌集『山桜の歌』に収められた後期の代表作と言われる「山ざくら」23首中の最初の作。 うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花 うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花 瀬瀬走るやまめうぐひのうろくづの美しき春の山ざくら花 とほ山の峰越の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花 つばくらめひるがへりとぶ溪あひの山ざくらの花は褪せにけるかも |
|||
|
宮崎県日向市東郷町坪谷 生家裏 | ||||
昭和22年(1947)11月17日除幕<10> |
||||
「本書を亡き父に捧ぐ」とある第6歌集『みなかみ』は「故郷」「黒薔薇」「父の死後」「海及び船室」「酔樵歌」の5章からなっている。「故郷」の巻頭歌。 ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り 母が飼ふ秋蚕の匂ひたちまよふ家の片すみに置きぬ机を いづくにか父の声きこゆこの古き大きなる家の秋のゆふべに まんまるに袖ひきあはせ足ちぢめ日向にねむる、父よ風邪ひかめ しんしんと頭痛めり、悲しき幻影、輝ける市街の停車場の見ゆ われを恨み罵りしはてに噤みたる母のくちもとにひとつの歯もなき 夕されば炉辺に家族つどひあふそのときをわれはもとも恐れき 飲むなと叱り叱りながらに母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ 姉はみな母に似たりきわれひとり父に似たるもなにかいたまし 父と母くちをつぐみてむかひあへる姿は石のごとくさびしき 山河みな古き陶器のごとくなるこのふるさとの冬を愛せむ
4月13日には石川啄木の死に遭いいろいろ奔走したり、『創作』に代わる短歌誌『自然』を創刊したりと忙しさが続く中、7月20日父重態の知らせを受ける。帰るにも旅費がなく、ようやく工面して25日に帰り着く。父の病気はひとまず落ち着いていたが、地元への就職を求める家族に抗することができず、しばらく上京をあきらめる。部屋に籠もったり、家の裏手和田の越と言われる所に数年前の暴風雨で転げ落ちてきた巨石に上って尾鈴連峰を眺めながらもの思いに耽る日々が続く。10月末には実家に戻っていた喜志子から妊娠の知らせが届くが、やはり家を出ることはできない。そんな11月14日、父が突然脳溢血で亡くなる。益々進退に迷い焦燥・懊悩の日々を送り、歌も定型を大きくはみだした破調の歌となっていく。結局母から上京の許しをもらって出郷したのは大正2年(1913)5月14日であった。途中瀬戸内の岩城島に門下を訪ねそこで『みなかみ』の歌稿をまとめるなどして、東京に着いたのは6月18日であった。この間4月24日には長男旅人が信州で生まれている。 歌碑は和田の越の、牧水が親しんだ巨石に歌を刻んだもので、除幕当日にはアメリカ進駐軍からの出席者もあったという。 平成元年(1988)「リフレッシュふるさと推進モデル事業」として坪谷川を挟んだ牧水生家の向かい側の丘陵地帯に「県立牧水公園」が建設され、平成17年(2005)4月1日には「若山牧水記念文学館」がオープンしたという。長男旅人氏が設計して昭和42年(1967)生家隣りに開館した「牧水記念館」の、川端康成揮毫の看板はどうなったものだろうか。 |
||||
|
宮崎県日向市細島 御鉾ヶ浦 | ||
昭和36年(1961)7月2日除幕<31> |
||
第3歌集『別離』下巻所収。 ふるさとのお秀が墓に草枯れむ海にむかへる彼の岡の上に 『別離』上巻には、次の4首も収められている。 さらばとてさと見合せし額髪のかげなる瞳えは忘れめや (二首秀穣との別れに) 別れてしそのたまゆらよ虚なる双のわが眼にうつる秋の日 いま瞑ぢむ寂しき瞳明らかに君は何をかうつしたりけむ (途中大阪にかれは逝きぬ) 短かりし君がいのちのなかに見ゆきはまり知らぬ清きさびしさ 前2首は『海の声』にも採られているが、2首目は下の句に異同が見られる。 別れてしそのたまゆらよ虚なる双のひとみに秋の日を見る お秀こと日高秀子(戸籍名ヒデ)は、細島で廻船問屋を営む紀国屋の次女として生まれ、京都同志社女学校から日本女子大英文科に進んだ才媛。牧水の高等小学校からの友人日高園助の幼馴染みということで牧水と面識があった。明治39年(1906)夏、上京して2度目の帰省で神戸から細島に着いた牧水は、そこで日高園助の恋の苦衷を聞き、単身神戸まで引き返し談判するも効なく、再び細島まで戻ってきた。奇しくもその神戸の家には小枝子が遊びにきており、後に恋の深みへとはまっていくのであるが、この39年7月には、偶然にもやはり鹿児島から帰省した親友鈴木財蔵と出会い、秀子と3人海岸を歩いている。7月10日付鈴木宛の葉書。 磯の日、あゝ思ひ出おほき日ならずや、こゝろかの日を想ふごとに何処ともなくほのかに松の嵐波のひゞきの通ふを覚ゆ、あゝ思ひ出おほき日ならず や。(略)僅か小半日なりしかど、かの磯の日の恋しく候。雨を見、谷をきいてこゝろ更にあこがれ申し候、 海の声ほのかにきこゆ磯の日のありしをおもふそのこひしさに 物がたり磯の夏樹の花かげに涼しかりにし日をおもふかな この「磯の日」以来二人は親しくなり、東京で行き来するようになる。しかし恋愛関係に発展することはなく、互いにそれぞれの恋に傾斜していくのであるが、秀子はその恋に破れ40年(1907)10月東京を去る。11月18日付鈴木宛の書簡に牧水は次のように書く。 君、秀さんは死んだよ、細島の秀さんはもうこの世には居なくなつたよ、(略)君、僕はいま君に彼女の死期の無惨なりしことを語るを得ぬ、彼女は普 通の死ではなかつたのだ、自殺ではない、勿論他殺でもない、が、普通の死ではない、僕は彼女が今はのうは言を想ふに忍びぬ、(略)君、お願ひ することがある、来年の夏は両人して彼女の墓に詣でよう、彼女の墓地は米山の中腹にあることを知つてゐる、その山の中腹で麓に海の水を眺め て、顧みて一基の石に対した時、両人の胸には何が湧かう、如何の思ひが湧くであらう。 秀子は帰郷の途中、大阪の緒方病院という産婦人科病院で客死した。享年22。 牧水はかつて秀子と日高家の墓地に行き、そこから港を見た記憶があったので、こんな歌ができたという。 昭和52年(1977)10月、私は大岡信著の『今日も旅ゆく・若山牧水紀行』を持って、宮崎・沼津の牧水ゆかりの地を訪れた(ここにあげた宮崎・沼津の写真は、墓を除いていずれも当時のものである)。もともと冬に予定していたのだが、仕事に突然余裕ができ、急遽出かけたのだった。従ってろくに下準備もせず、詳しい地図1枚持っていなかった。見知らぬ土地を上掲書のコースガイド「若山牧水歌の旅路」を頼りに、それこそテキトウな勘で歩き回ったのだが、結局限られたコースの中で見たい所は全て見ることができた。実に幸運だったと思う。 その幸運の最たる所がこの細島だった。鉄道がまだ敷かれていなかった時代、牧水は上京・帰省の折に細島を経由した。私もその日、細島からフェリーで九州に別れを告げることになっていた。それが失敗の原因だった。上掲書をよく見るとちゃんと書かれているのだが、フェリー発着は工業港、牧水の頃の港は商業港と別であることに初めは気づかなかった。やっと軌道修正してそれらしき所までたどり着いたものの、「背後の高台の海水浴場を見おろす場所に立っている。道から外れ雑草に埋れてちょっとわかりにくい」(上掲書)とある牧水歌碑だが、全くの山道で一向に足踏み入れるような小径が見あたらない。ここまで来てと途方に暮れたが、地元の人に尋ねたところ「近頃は行く人もいないから」と、家から鎌を持ってきて刈り払いだした。「確かこの辺だった」というすすきその他の草の下から歌碑が顔を出した時には、まさに「発見」の喜びがあった。最も思い出深い歌碑である。 どの本のどの写真を見ても、さっぱりした小公園風であるだけに、かえって貴重な写真になったと思っている。 |
||
|
宮崎県日向市 日向市駅 | |||
昭和51年(1976)11月2日除幕<73> |
|||
「東郷町若山牧水顕彰会」のWebサイトの「牧水歌碑集」には、全国154基の歌碑等が紹介されているが、そのうちこの歌を刻んだものは第1号の沼津千本松原の歌碑を初めとして8基。おそらく歌碑に採られた歌としては最も多いであろう。 この歌碑は、駅構内の陸橋が取り壊され一番ホームにできた空き地の有効活用ということで当時の国鉄の関係者が話し合い建設されたものという。それ故、旅の代表作ということで選歌された由である。設計は長男旅人氏、撰文大悟法氏。歌については、沼津千本松原の歌碑の項にゆずる。なお、11月2日の除幕については、翌3日に大分の耶馬溪で「安芸の国越えて長門にまたこえて豊の国ゆきほととぎす聴く」「ただ恋しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき」の2首が刻まれた歌碑の除幕式が決定していたため、参列者の便宜を図ったとのことである。 この歌碑が建立された約1年後に私は宮崎を訪れたのであるが、延岡から宮崎へ向かう途中、車窓からふと眺めたのがこの歌碑であった。歌碑の存在自体を知らなかったのでびっくり仰天、とりあえず車中から撮った写真。翌々日にはもう一度ここに来るからと思っていたのだったが、その翌々日は他の日程が詰まっていて、結局近くで見ることはできなかった。それにしても、乗り合わせた車輌が偶然近くに停車するという僥倖がなければ、知らないまま帰ってきていたのだと思うと、本当にラッキーであった。 |
|||
|
宮崎県串間市 都井岬 | ||
昭和22年(1947)9月17日除幕<9> |
||
第1歌集『海の声』第3歌集『別離』の「旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり思ひ出にたよりよかれとて」と旅中の歌をまとめた中に「二十六首南日向を巡りて」(『別離』では二十三首)とあり、「以下三首都井岬にて」として所載。結句に異同がある。 椰子の実を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る あはれあれかすかに声す拾ひつる椰子のうつろの流れ実吹けば 日向の国都井の岬の青潮に入りゆく端に独り海聴く <海の声> 日向の国都井の岬の青潮に入りゆく端に独り海見る <別離> この歌は、「幾山河」の歌ができた明治40年(1907)の帰省の際、無医村の都井村に滞在して診療に従事していた父立蔵に会う目的で南日向を旅した時の作。6月22日に帰省の途についた牧水が、7月14日夜帰郷して1週間ほどで家を立ち、青島・鵜戸・油津・都井などに遊び、8月10日には延岡に出て数日滞在、帰宅後28日に出郷して大阪・和歌山・奈良等に立ち寄って9月10日頃東京に戻るという、まさに「旅人牧水」誕生の3ヶ月であった。「南日向を巡りて」には次のような歌もある。 白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人恋ふる身を 檳榔樹の古樹を想へその葉蔭海見て石に似る男をも (日向の青島より人へ) 船はてて上れる国は満天の星くづのなかに山匂ひ立つ (日向の油津にて) この歌碑は大戦後初で、生家裏の歌碑建立の刺激になったものだという。 |
||