牧水ー碑の詩

九州 (宮崎県)



 宮崎県延岡市 城山公園
昭和10年(1935)3月21日除幕<3>
    なつかしき      をさなかりし日

     城山の鐘        聞きし

      鳴りいてぬ       ことくに

                      牧水



 牧水は坪谷尋常小学校を卒業した明治29年(1896)5月から延岡高等小学校に入り、32年(1899)には延岡中学校一回生として入学、37年(1904)卒業して上京するまでの8年間を延岡に過ごしている。「城山の鐘」は、明治11年(1878)に延岡城址(城山)の天守台跡に建てられた鐘楼で今も毎日時を告げている鐘。6月10日の時の記念日に「城山の鐘まつり」が行われている。

 大正15年(1927)5月、詩歌綜合雑誌『詩歌時代』を創刊し好評を得るも資金難のため10月号限りで廃刊、また14年に建てた新居の借金などもあり、この頃は揮毫行脚を続けていたが、昭和2年(1928)には朝鮮にまで足を伸ばすこととなった。5月4日沼津を出発し、大阪・広島・延岡などを回った後、16日釜山上陸。以後朝鮮各地を巡って、7月12日「脚は利かず、ものをいふのはおつくうなりの状態」(7月11日付手紙)で下関到着。大分・延岡・坪谷などを更に回って31日ようやく沼津に帰り着く大旅行であった。
 歌碑の歌は、帰国後の7月17日から滞在していた延岡の台雲寺(母の異母弟宅)で24日詠んだ延岡最後の歌であるという。歌集には収録されていない。
       なつかしき城山の鐘なり出でぬ幼かりし日ききし如くに   (延岡にて)

 牧水の7周忌にあたる昭和9年(1934)歌碑を建てることになり、10年3月17日建立。その主唱者であった門人の谷次郎・越智渓水の歌碑がその後牧水歌碑の両脇に建てられた。
 歌碑が建てられた昭和10年から毎年、3月の彼岸の頃に「若山牧水歌碑祭」が行われ、朗詠と酒が捧げられているという。 


 宮崎県延岡市 延岡高校
昭和32年(1957)9月17日除幕<20>

             牧水
     うす紅に

    葉はいちはやく

    萌えいで ゝ

    咲かむとすなり

    山ざくら花
 


旧県立延岡中学校第一回卒業生
若山牧水先生三十年忌に当たり、
これを建てる
   昭和三十二年九月十七日
     延岡恒富高校 同同窓会
     同PTA  文化関係有志
 明治32年(1899)、延岡に初めて県立中学校が開校し、高等小学校3年を修了した牧水は4年卒業生らと一緒に入学試験を受け、入学者100名中4番の成績で入学した。2年の頃から盛んに文学書に親しむようになり、34年(1901)から出されるようになった校友会雑誌に発表したり、友人に教えられて『中学文壇』などの雑誌に投書を始める。35年(1902)には友人らと回覧の文芸誌『曙』、36年(1903)短歌誌『野虹』を発行、卒業まで精力的に活動している。母の名「マキ」と渓や雨の「水」とを合した「牧水」の号は36年秋に初出が認められるが、翌年1月から本格的に使用するようになった。その37年(1904)3月中学校を卒業するのであるが、2代にわたる医者の家の唯一の男子として家業を継ぐべき立場にあり、しかし文学を捨てきれず、学資の問題もあって懊悩の日々を送る。結局は義兄の援助を得て早稲田への進学が認められ、故郷宮崎をあとにしたのだった。

 昭和23年(1948)旧制延岡中学校が県立延岡恒富高校となり、34年(1959)4月延岡高校と改称。胸像は昭和38年3月に建てられたという。

 歌は、大正11年(1922)3月28日湯ヶ島温泉に出かけ、湯本館に3週間ほど滞在した時の作で、第14歌集『山桜の歌』に収められた後期の代表作と言われる「山ざくら」23首中の最初の作。
       うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花
       うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花
       瀬瀬走るやまめうぐひのうろくづの美しき春の山ざくら花
       とほ山の峰越の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花
       つばくらめひるがへりとぶ溪あひの山ざくらの花は褪せにけるかも


 宮崎県日向市東郷町坪谷 生家裏
昭和22年(1947)11月17日除幕<10>

     ふるさとの

       尾鈴のやまのかなしさよ

       秋もかすみの

        たなびきてをり    牧水 

明治四十五年牧水は父の病気重態のため郷里に
留って就職し家計を立てるよう懇請され進退に迷い
苦悩懊悩の日日を送った。この岩の上に座し瞑想
や読書に耽ったと云う。牧水二八才の秋である。






 「本書を亡き父に捧ぐ」とある第6歌集『みなかみ』は「故郷」「黒薔薇」「父の死後」「海及び船室」「酔樵歌」の5章からなっている。「故郷」の巻頭歌。
       ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り
       母が飼ふ秋蚕の匂ひたちまよふ家の片すみに置きぬ机を
       いづくにか父の声きこゆこの古き大きなる家の秋のゆふべに
       まんまるに袖ひきあはせ足ちぢめ日向にねむる、父よ風邪ひかめ
       しんしんと頭痛めり、悲しき幻影、輝ける市街の停車場の見ゆ
       われを恨み罵りしはてに噤みたる母のくちもとにひとつの歯もなき
       夕されば炉辺に家族つどひあふそのときをわれはもとも恐れき
       飲むなと叱り叱りながらに母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ
       姉はみな母に似たりきわれひとり父に似たるもなにかいたまし
       父と母くちをつぐみてむかひあへる姿は石のごとくさびしき
       山河みな古き陶器のごとくなるこのふるさとの冬を愛せむ

 
               若山牧水
 「おもいやるかのうす青き峽のおくにわれのうまれし朝のさびしさ」
若山牧水は本名繁 明治十八年八月二十四日ここに生れ、延岡
中学校時代から歌に志し早稲田大学英文科卒業後歌道に専心し
清貧の一生を送り多くの名歌を残し昭和三年九月十七日四十三
才で沼津千本松原の蔭の家に没した
               牧水生家
 生家は牧水の祖父健海が弘化二年(一八四五)の頃に建築したも
ので牧水少年時代の姿をそのままに伝えている。健海は埼玉県所沢
在の農家に生れ若くして蘭学医術を学び天保七年(一八三六)ここに
移り住んで医を業とした。嘉永二年蘭人モーニッケが我が国に種痘を
伝えるやいち早くそれを学んで日向各地に実施した先覚者である。
生家は昭和四十一年九月史蹟として県の指定をうけた。
              牧水記念館
 牧水記念館は昭和四十二年文化の日に開館した。牧水の長男
旅人氏の設計で牧水に関する資料数百点を展示し我が国文学の
振興に資している。
               牧水歌碑
 歌碑は記念館のすぐ後の小丘にある。
昭和二十二年十一月十七日に除幕式が行われた。「ふるさとの尾
鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきてをり」が牧水の筆蹟で自
然石に刻まれている。歌は歌集「みなかみ」所載のもので大正元年
秋の作。当時牧水は父立蔵病気のために帰省中であったが、近親
者たちから故郷に留まつて就職するよう強く求められ進退に迷つて苦
悶懊悩の日々を送つた。時折この歌碑の石の上に登り瞑想や読書
に耽つていたという。歌はそういう環境から生れたもので尾鈴の山をか
なしむ心はすなわち作者自身をかなしみまたいとしむ心である。
                         牧水顕彰会
 明治44年(1911)7月、歌人太田水穂の家で牧水は一人の女性と出会う。長野県広丘村(現塩尻市)の旧家に生まれ、文学の勉強をしようと上京していた太田喜志子である。牧水が彼女に会ったのはその日のわずかな時間にすぎなかったが、翌45年4月2日、信州旅行中の牧水は実家に戻っていた喜志子を呼び出し、結婚を申し込む。彼女は突然の申し出に驚きながらも、その澄んだ瞳と失敗した恋愛のことなどを率直に語る牧水を信じ、その愛を受け入れる。しかし、世間並みの結婚をしたくないという牧水の希望があり、喜志子は5月4日家人に黙って家を出、以前住み荷物を置いたままにしていた新宿の森本酒店の2階に落ち着く。牧水の結婚生活はそこで始まる。郷里の親には知らせぬまま。

 4月13日には石川啄木の死に遭いいろいろ奔走したり、『創作』に代わる短歌誌『自然』を創刊したりと忙しさが続く中、7月20日父重態の知らせを受ける。帰るにも旅費がなく、ようやく工面して25日に帰り着く。父の病気はひとまず落ち着いていたが、地元への就職を求める家族に抗することができず、しばらく上京をあきらめる。部屋に籠もったり、家の裏手和田の越と言われる所に数年前の暴風雨で転げ落ちてきた巨石に上って尾鈴連峰を眺めながらもの思いに耽る日々が続く。10月末には実家に戻っていた喜志子から妊娠の知らせが届くが、やはり家を出ることはできない。そんな11月14日、父が突然脳溢血で亡くなる。益々進退に迷い焦燥・懊悩の日々を送り、歌も定型を大きくはみだした破調の歌となっていく。結局母から上京の許しをもらって出郷したのは大正2年(1913)5月14日であった。途中瀬戸内の岩城島に門下を訪ねそこで『みなかみ』の歌稿をまとめるなどして、東京に着いたのは6月18日であった。この間4月24日には長男旅人が信州で生まれている。

 歌碑は和田の越の、牧水が親しんだ巨石に歌を刻んだもので、除幕当日にはアメリカ進駐軍からの出席者もあったという。

 平成元年(1988)「リフレッシュふるさと推進モデル事業」として坪谷川を挟んだ牧水生家の向かい側の丘陵地帯に「県立牧水公園」が建設され、平成17年(2005)4月1日には「若山牧水記念文学館」がオープンしたという。長男旅人氏が設計して昭和42年(1967)生家隣りに開館した「牧水記念館」の、川端康成揮毫の看板はどうなったものだろうか。    


 宮崎県日向市細島 御鉾ヶ浦
昭和36年(1961)7月2日除幕<31>

    ふるさとの

    お秀が墓に

    草枯れむ

    海に向へる

    彼の岡の上に

          牧水

  第3歌集『別離』下巻所収。
       ふるさとのお秀が墓に草枯れむ海にむかへる彼の岡の上に
 『別離』上巻には、次の4首も収められている。
       さらばとてさと見合せし額髪のかげなる瞳えは忘れめや    (二首秀穣との別れに)
       別れてしそのたまゆらよ虚なる双のわが眼にうつる秋の日
       いま瞑ぢむ寂しき瞳明らかに君は何をかうつしたりけむ    (途中大阪にかれは逝きぬ)
       短かりし君がいのちのなかに見ゆきはまり知らぬ清きさびしさ
 前2首は『海の声』にも採られているが、2首目は下の句に異同が見られる。
       別れてしそのたまゆらよ虚なる双のひとみに秋の日を見る

 お秀こと日高秀子(戸籍名ヒデ)は、細島で廻船問屋を営む紀国屋の次女として生まれ、京都同志社女学校から日本女子大英文科に進んだ才媛。牧水の高等小学校からの友人日高園助の幼馴染みということで牧水と面識があった。明治39年(1906)夏、上京して2度目の帰省で神戸から細島に着いた牧水は、そこで日高園助の恋の苦衷を聞き、単身神戸まで引き返し談判するも効なく、再び細島まで戻ってきた。奇しくもその神戸の家には小枝子が遊びにきており、後に恋の深みへとはまっていくのであるが、この39年7月には、偶然にもやはり鹿児島から帰省した親友鈴木財蔵と出会い、秀子と3人海岸を歩いている。7月10日付鈴木宛の葉書。
   磯の日、あゝ思ひ出おほき日ならずや、こゝろかの日を想ふごとに何処ともなくほのかに松の嵐波のひゞきの通ふを覚ゆ、あゝ思ひ出おほき日ならず   や。(略)僅か小半日なりしかど、かの磯の日の恋しく候。雨を見、谷をきいてこゝろ更にあこがれ申し候、
       海の声ほのかにきこゆ磯の日のありしをおもふそのこひしさに
       物がたり磯の夏樹の花かげに涼しかりにし日をおもふかな
 この「磯の日」以来二人は親しくなり、東京で行き来するようになる。しかし恋愛関係に発展することはなく、互いにそれぞれの恋に傾斜していくのであるが、秀子はその恋に破れ40年(1907)10月東京を去る。11月18日付鈴木宛の書簡に牧水は次のように書く。
   君、秀さんは死んだよ、細島の秀さんはもうこの世には居なくなつたよ、(略)君、僕はいま君に彼女の死期の無惨なりしことを語るを得ぬ、彼女は普   通の死ではなかつたのだ、自殺ではない、勿論他殺でもない、が、普通の死ではない、僕は彼女が今はのうは言を想ふに忍びぬ、(略)君、お願ひ   することがある、来年の夏は両人して彼女の墓に詣でよう、彼女の墓地は米山の中腹にあることを知つてゐる、その山の中腹で麓に海の水を眺め    て、顧みて一基の石に対した時、両人の胸には何が湧かう、如何の思ひが湧くであらう。
 秀子は帰郷の途中、大阪の緒方病院という産婦人科病院で客死した。享年22。
 牧水はかつて秀子と日高家の墓地に行き、そこから港を見た記憶があったので、こんな歌ができたという。 

 昭和52年(1977)10月、私は大岡信著の『今日も旅ゆく・若山牧水紀行』を持って、宮崎・沼津の牧水ゆかりの地を訪れた(ここにあげた宮崎・沼津の写真は、墓を除いていずれも当時のものである)。もともと冬に予定していたのだが、仕事に突然余裕ができ、急遽出かけたのだった。従ってろくに下準備もせず、詳しい地図1枚持っていなかった。見知らぬ土地を上掲書のコースガイド「若山牧水歌の旅路」を頼りに、それこそテキトウな勘で歩き回ったのだが、結局限られたコースの中で見たい所は全て見ることができた。実に幸運だったと思う。
 その幸運の最たる所がこの細島だった。鉄道がまだ敷かれていなかった時代、牧水は上京・帰省の折に細島を経由した。私もその日、細島からフェリーで九州に別れを告げることになっていた。それが失敗の原因だった。上掲書をよく見るとちゃんと書かれているのだが、フェリー発着は工業港、牧水の頃の港は商業港と別であることに初めは気づかなかった。やっと軌道修正してそれらしき所までたどり着いたものの、「背後の高台の海水浴場を見おろす場所に立っている。道から外れ雑草に埋れてちょっとわかりにくい」(上掲書)とある牧水歌碑だが、全くの山道で一向に足踏み入れるような小径が見あたらない。ここまで来てと途方に暮れたが、地元の人に尋ねたところ「近頃は行く人もいないから」と、家から鎌を持ってきて刈り払いだした。「確かこの辺だった」というすすきその他の草の下から歌碑が顔を出した時には、まさに「発見」の喜びがあった。最も思い出深い歌碑である。
 どの本のどの写真を見ても、さっぱりした小公園風であるだけに、かえって貴重な写真になったと思っている。  


 宮崎県日向市 日向市駅
昭和51年(1976)11月2日除幕<73>

    幾山河

    こえさり行かば

    寂しさの

    はてなむ國ぞ

    けふも旅ゆく

          牧水


旅の歌人として親しまれる若山牧水は、
明治十八年八月、現在の東郷町坪谷
に生れた。初期の代表作として知られる
この歌は、まだ二十一歳、早稲田大学
在学中の牧水が暑中休暇に帰省する途
中の作であり、ここはそのふるさとの駅。

 「東郷町若山牧水顕彰会」のWebサイトの「牧水歌碑集」には、全国154基の歌碑等が紹介されているが、そのうちこの歌を刻んだものは第1号の沼津千本松原の歌碑を初めとして8基。おそらく歌碑に採られた歌としては最も多いであろう。
 この歌碑は、駅構内の陸橋が取り壊され一番ホームにできた空き地の有効活用ということで当時の国鉄の関係者が話し合い建設されたものという。それ故、旅の代表作ということで選歌された由である。設計は長男旅人氏、撰文大悟法氏。歌については、沼津千本松原の歌碑の項にゆずる。なお、11月2日の除幕については、翌3日に大分の耶馬溪で「安芸の国越えて長門にまたこえて豊の国ゆきほととぎす聴く」「ただ恋しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき」の2首が刻まれた歌碑の除幕式が決定していたため、参列者の便宜を図ったとのことである。

 この歌碑が建立された約1年後に私は宮崎を訪れたのであるが、延岡から宮崎へ向かう途中、車窓からふと眺めたのがこの歌碑であった。歌碑の存在自体を知らなかったのでびっくり仰天、とりあえず車中から撮った写真。翌々日にはもう一度ここに来るからと思っていたのだったが、その翌々日は他の日程が詰まっていて、結局近くで見ることはできなかった。それにしても、乗り合わせた車輌が偶然近くに停車するという僥倖がなければ、知らないまま帰ってきていたのだと思うと、本当にラッキーであった。


 宮崎県串間市 都井岬
昭和22年(1947)9月17日除幕<9>

   日向の國都井の岬乃青潮に

   入りゆく端ひとり海見る

                牧水詠  喜志子書


 第1歌集『海の声』第3歌集『別離』の「旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり思ひ出にたよりよかれとて」と旅中の歌をまとめた中に「二十六首南日向を巡りて」(『別離』では二十三首)とあり、「以下三首都井岬にて」として所載。結句に異同がある。
       椰子の実を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る
       あはれあれかすかに声す拾ひつる椰子のうつろの流れ実吹けば
       日向の国都井の岬の青潮に入りゆく端に独り海聴く   <海の声>
       日向の国都井の岬の青潮に入りゆく端に独り海見る   <別離>

 この歌は、「幾山河」の歌ができた明治40年(1907)の帰省の際、無医村の都井村に滞在して診療に従事していた父立蔵に会う目的で南日向を旅した時の作。6月22日に帰省の途についた牧水が、7月14日夜帰郷して1週間ほどで家を立ち、青島・鵜戸・油津・都井などに遊び、8月10日には延岡に出て数日滞在、帰宅後28日に出郷して大阪・和歌山・奈良等に立ち寄って9月10日頃東京に戻るという、まさに「旅人牧水」誕生の3ヶ月であった。「南日向を巡りて」には次のような歌もある。
       白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人恋ふる身を
       檳榔樹の古樹を想へその葉蔭海見て石に似る男をも   (日向の青島より人へ)
       船はてて上れる国は満天の星くづのなかに山匂ひ立つ   (日向の油津にて)

 この歌碑は大戦後初で、生家裏の歌碑建立の刺激になったものだという。



牧水ー碑の歌