静岡県伊豆市土肥 松原公園U | |||
平成11年(1999)12月11日除幕 |
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○大正七年 一月一日、青森から来訪中の加藤東籬を案内して鎌倉見物をしたのち、沼津に行き一泊、翌 日伊豆土肥温泉に行き、四日夜帰宅。(四日、歌七首) 二月七日、再び土肥温泉に行き、二十四日まで滞在。(一八日、歌八四首) ○大正十一年 一月一日から伊豆土肥温泉滞在、十二日帰宅。(一二日、歌三八首) ○大正十二年 一月十六日から二月五日まで伊豆土肥温泉に滞在、静養のかたわら歌集『山桜の歌』を編 集。(二一日、歌九首) ○大正十三年 一月一日から伊豆土肥温泉に滞在、二月二日帰宅。(三三日、歌四首) ○大正十四年 五月五日から土肥温泉に二泊。(三日) 大正14年(1925)は「完全に半折会の揮毫行脚に終始した一年」(『若山牧水伝』)で、4月18日から5月4日まで長野県・岐阜県・名古屋等を回って帰宅すると、新居の工事を頼んでいた土肥の大工から材木のことですぐ来てほしいとの連絡があり、翌朝妻と二人直ちに土肥へ駆けつけたのだという。撰文によれば、歌はその時の作であろうが、『若山牧水全歌集』には載っていない。 花のころに来馴れてよしと思へりし土肥に来て見つその梅の実を 当時伊豆半島西海岸唯一の温泉で、沼津から船が便利でもあり、新春には梅の花が見られるということで、『渓谷集』に9首(大正7年)、『山桜の歌』9首(大正11年)、『黒松』1首(大正13年)と、150余首という土肥の歌の1割強に梅を詠った歌が収められている。 |
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静岡県伊豆市土肥 土肥館 夫婦歌碑 | ||
昭和45年(1970)8月24日除幕<59> |
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庭に1.4mほどの歌碑が除幕されたそうだが、あまり見栄えがしないということで45年に改めて建立され(高さ2m、幅・厚さ70p)、松原公園の歌碑に続いて除幕されたという。歌は新旧歌碑とも同じ。筆蹟は、前の碑が都費館所蔵の半折の字を模したものでるのに対し、新しい碑は半折そのまま二行に刻んだとか。前の碑は内庭に移された。(『牧水歌碑めぐり』による) 第14歌集『山桜の歌』「大正十一年」の部の最初に「土肥温泉にて 一月一日、沼津狩野川々口より伊豆国土肥温泉に渡り十日あまり滞在す。」として、26首。 柴山のかこめる里にいで湯湧き梅の花咲きて冬を人多し 湯の宿のしづかなるかもこの土地にめづらしき今朝の寒さにあひて わが泊り三日四日つづき居つきたるこの部屋に見る冬草の山 わが坐るま向ひの方ゆひびきくる冬の夜ふけの海のとどろき 柴山の尾根よりいづる冬の日はひたと射したりわが坐る部屋に 牧水の常宿として今や「牧水荘土肥館」を名乗り、「若山牧水ギャラリー」もあるという。 |
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静岡県伊豆市 恋人岬 富士見遊歩道 | |||
昭和59年(1984)10月除幕 |
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「松原公園T」に記した、第12歌集『渓谷集』の「伊豆の春 海女(其の二)」中の1首。 黒岩のこごしき蔭に見出でつるこの海女が子を親しとは見つ おもはぬに言葉はかけつ面染めてはぢらふ見れば悔いにけるかも ひとみには露をたたへつ笑む時の丹の頬のいろは桃の花にして 椿のいまだふふみて咲きいでぬこの海女が子を手にか取らまし 素はだかにいまはならなとおもへるごとその健かの顔はわらへり |
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静岡県松崎町 岩地海岸 | ||
昭和41年(1966)5月19日除幕<47> |
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第3歌集『別離』の「女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ。われその傍らにありて夜も昼も断えず歌ふ、明治四十年早春。」という詞書がある一連76首中の1首。安房根本海岸に渡ったのは40年の年末であり、「四十年早春」は「四十一年」の誤りである。この時の歌は多く『新声』41年2月号に発表されており、この歌も同じ紙面を飾っている。したがってまさに「安房の渚」で詠われたものと思われるが、第1歌集『海の声』には採られず、『別離』に新たに加えられた。 恋ふる子等かなしき旅に出づる日の船をかこみて海鳥の啼く 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく 忍びかに白鳥啼けりあまりにも凪はてし海を怨ずるがごと 春のそら白鳥まへり嘴紅しついばみてみよ海のみどりを くちつけは永かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る 春の海さして船行く山かげの名もなき港昼の鐘鳴る 「筆蹟は土地の故老で、無理な変体仮名を多用して読みにくい」(『牧水歌碑めぐり』)。 |
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静岡県松崎町 牛原山町民の森 | ||
昭和61年(1986)3月除幕 |
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第13歌集『くろ土』所収。大正九年の部「伊豆にて」に「二月十二日伊豆松崎港よりとある溪に沿ひて天城街道に出づ。」の詞書がある。 幾年か見ざりし草の石菖の青み茂れり此処の溪間に 続けて、「十三日徒歩して天城山を越ゆ、やがて雪降り出で山上積る事尺に及ぶ。」20首。 霜どけの崖ゆ落ち来るさざれ石のさびしき音は道に続けり 九十九折登ればいよよ遙けくて麓の小溪ながめ見飽かぬ 大君の御猟の場と鎮まれる天城越えゆけば雪は降りつつ 道の上に積みゆく雪をながめつつ今は急ぎぬ峠真近を 「山を越えて麓なる湯が島温泉に到る、あたりまた深々と雪積りたり、滞在四日。」5首。 樫鳥のつばさ美し庭さきの青樫のあひをしばしばも飛ぶ 山中の温泉に来り静けしとこころゆるめば思ふ事おほし 「附近に木立の淵といへる溪流あり、山の相迫れるところ岩秀で水深し。」3首。 流れ寄る水泡うづまき過ぎゆけど静かなるかも岩蔭の魚は この時の旅は、2月9日出発。沼津に1泊して下田行きに乗船したが、戸田を過ぎるとひどい風浪となり土肥に寄ったものの下船できず、阿良里の港で欠航となる。やむなく仁科村浜町という所で2泊。12日、そこから松崎に出てバス・徒歩等で湯ヶ野温泉に向かい1泊。そして13日、雪の天城峠を越えて湯ヶ島温泉に赴き、4日滞在して東京に戻ったのだという。 |
静岡県伊豆市 湯ヶ島温泉 | |||
昭和56年(1981)4月2日除幕<92> |
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第14歌集『山桜の歌』の「山ざくら 三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ。附近の渓より山に山桜甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此処にまとめつ。」 うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花 うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花 花も葉も光りしめらひわれの上に笑みかたむける山ざくら花 瀬瀬走るやまめうぐひのうろくづの美しき春の山ざくら花 つめたきは山ざくらの性にあるやらむながめつめたき山ざくら花 とほ山の峰越の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花 吊橋のゆるるあやふき渡りつつおぼつかなくも見し山ざくら 山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき 牧水は「中学の寄宿舎に在つて恋しいものはたゞ父であり母であり、その故郷の山の山ざくらの花であった。」「今年偶然にもこの花の非常に多い処を発見した。それはいま私の滞在してゐる伊豆湯ヶ島温泉である。」と、「追憶と眼前の風景」に書いている。そしてこの11年3月以後、12年4月(4泊)、14年4月(2泊)、15年5月(1泊)、昭和2年3月(2泊)、3年3月(1泊)と、山桜の季節にはほぼ毎年出かけている。(それ以前は、大正9年2月3泊、10年3月12泊) |
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静岡県伊豆市 湯ヶ島温泉 天城屋 | |||
昭和60年(1985)11月除幕(?) |
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あまぎ嶺の千歳の老樹根をひたす真清水くみて醸すこのみき 歌は歌集に載っておらず、資料も全く持っていないので、インターネットで拾い集めてみた。 清酒「天城」は副碑に「姿を消した」とあるが、ブログ「花と祭の気まま旅」には「辛口、冷やして飲むとスッキリしたのみ口」とあり、この歌が印刷されたラベルの「天城」が載っている。 ーー 浅田六平さんは清酒「天城」の醸造家である。もう七十の坂を越えようと言うのに瓢々乎として自ら楽しみ愚痴を言わない品のいい老人。天城の南のことは私に分らないが、修善寺から天城の北までの街道筋に、吉奈のさか屋の主人を除けば右に出る者がない碁打ちである。奇々怪々な我流の取り碁であるが、石の活殺となると流石一流の粘りを持っている。 ーー 川端康成の「『伊豆の踊子』の装幀その他」にこう記された淺田六平は天城屋の8代目。酒樽を担いで牧水の泊まっている宿まで運び、台所で樽を前に酒盛りが始まったという。 |
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静岡県下田市須崎 恵比寿島 | |||
昭和55年(1980)9月7日除幕<91> |
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大正2年(1913)6月、郷里からほぼ1年ぶりに上京した牧水は、7月末『創作』を復活、9月には歌集『みなかみ』を刊行した。そして、10月26日夜下田に向かった。翌日も荒れは収まらず、28日朝ようやく神子元島に渡る。その時の歌が第7歌集『秋風の歌』に「秋風の海及び灯台」として81首収められている。(もともとは旅行記と合わせた歌文集として出版する計画だったという。) 東京霊岸島より乗船、伊豆下田港へ渡る(7首) 伊豆の岬に近づきしころ、風雨烈しく船まさに覆らむとす(10首) 下田港より灯台用便船に乗りて神子元島に渡る、一木なき岩礁なりき(35首) 船は五挺櫓漕ぐにかひなの張りたれど涛黒くして進まざるなり 大うねりかたむきにつつ落つるときわが舟も魚とななめなりけり みだれ立つしぶきにぬれて火のごとくわれの白帆は風に光れり その島にただ灯台立てり、看守Kー君はわが旧き友なり(29首) 友が守る灯台はあはれわだ中の蟹めく岩に白く立ち居り 切りたてる赤岩崖のいただきに友は望遠鏡を振りてゐにけり 砕け立つ浪のすきまに沙魚のごと真赤き岩にとびうつりけり ダリアの花につぎつつ舟子等とりいだす重きは友よ酒ぞこぼすな 石づくり角なる部屋にただひとつ窓あり友と妻とすまへる その窓にわがたづさへし花を活け客をよろこぶ若きその妻 語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけり先づ酒酌まむ 古賀安治という人は佐賀の資産家の息子で、早稲田を中退して島を買いきって住んだり、渡米・放浪したりと奔放な生活を送ってきたそうだが、その彼に灯台守になることを勧められ一時は真剣に考えた心の揺れは、まさに「灯台守」「島三題」に詳しい。神子元島は下田港から南へ11q、静岡県最南端の無人島で、明治3年(1870)に造られた灯台は石造灯台として日本最古の現役灯台とのこと。歌碑の除幕に関しては『牧水歌碑めぐり』によった。 |
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