静岡県裾野市 鈴木浚一宅 | ||
昭和55年(1980)4月27日除幕<87> |
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鈴木浚一(秋灯)氏は「沼津に移ってまもない頃から、足しげく牧水の家に出入りして可愛がられていた若い門下」(『牧水歌碑めぐり』)で、昭和2年3月7日には牧水に誘われ、「雪の深い湖尻峠を越えて箱根千石原に行き仙郷楼に一泊、翌日は膝を没する積雪の中を大湧谷、姥子、湖尻と廻り、船で蘆の湖を渡り箱根権現に参詣、そこから自動車で沼津に帰った」り、昭和3年3月4日には御殿場から「長尾峠を越えて箱根の木賀温泉に泊り、翌五日は折からの大吹雪の中を」小田原まで歩き、電車で湯ケ原に行って泊、六日熱海、七日多賀という漁村で別れる(いずれも『若山牧水伝』より)など、親しく旅の供をしている。 第15歌集『黒松』昭和3年の部「麦の秋」10首中の6首。原稿用紙にペン書きした歌稿の、用紙一枚分をそっくり拡大した歌碑で、歌集所収歌とは若干の異同がある。 麦の穂の風にゆれたつ音きこゆ雀つばくら啼きしきるなかに うちわたすこの麦畑のゆたかなるさまをし見れば夏闌けにけり 熟麦のうれとほりたる色深し葉さへ茎さへうち染まりつつ うれ麦の穂にすれすれにつばくらめまひ群れて空に揚雲雀なく 立ち寄れば麦刈にけふ出で行きて留守てふ友が門の柿の花 刈麦を積み溢らせて荷車のひとつ行くなりこの野のみちを |
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静岡県裾野市 市民文化センター | ||
平成3年(1991)8月除幕 |
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第14歌集『山桜の歌』大正十一年の部の「大野原の初夏 富士の麓大野原の秋は既に知りぬ、初夏の野原のながめいかならむとて六月初めまた其処に遊ぶ。」27首中の1首。 夏草の大野をこめて白雲のみだれむとする夏のしののめ 相添ひて啼きのぼりたる雲雀ふたつ啼きのぼりゆく空の深みへ 寄り来りうすれて消ゆる水無月の雲たえまなし富士の山辺に 夏雲はまろき環をなし富士が嶺をゆたかに巻きて真白なるかも 富士が嶺の裾野のなぞへ照したる今宵の月は暈をかざせり 大正9年(1920)10月に初めて大野原を訪れ感動した牧水は、11年(1922)6月に再び訪れている。「六月四日はまたふらふらと草鞋をはいて出かけたくなり、汽車で裾野駅まで行き、残雪の富士を仰ぎつつ夏草の須山まで歩いて一昨年も泊った清水館に一泊、翌五日には朝早くそこを出て前の時とはほぼ反対に印野を経て御殿場まで歩いて沼津に帰った。」(『若山牧水伝』) |
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静岡県裾野市須山 清水館 | |||
昭和53年(1978)11月3日除幕<70> |
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文化センター歌碑と同じく第14歌集『山桜の歌』大正十一年の部の「大野原の初夏」所収。 真日中の日蔭とぼしき道ばたに流れ澄みたる井手のせせらぎ 道にたつ埃を避けて道ばたの桑の畑ゆけば桑の実ぞおほき 麦畑のひとところ風の吹きたてば夕日は乱るその穂より穂に 日をひと日富士をまともに仰ぎ来てこよひを泊る野の中の村 雲雀なく声空にみちて富士が嶺に消残る雪のあはれなるかな 「旅館専業でないこの宿は、泊る客には至って親切だが、新しい客のために宣伝しようなどとは夢にも考えていないらしく、こんな田舎の小さい旅館に牧水先生のような歌人が二度も泊ってくれたのはまことに名誉だと喜んで、その記念と感謝とから歌碑を建て」「牧水の泊った部屋は二度とも二階で、そのままに残っている」と『牧水歌碑めぐり』にあるが、その後廃業しながら現在も建物自体は取り壊さず、当主は奥に新しい家を建てて住んでいるとのこと。 |
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静岡県裾野市十里木 富士山資料館 | |||
昭和53年(1978)12月24日除幕<81> |
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裾野中央公園公園の歌碑と同じく、第14歌集『山桜の歌』「大野原の秋」最後の歌。 つつましく心なりゐて富士が嶺の裾野にまへるうづら鳥見つ 富士が嶺の裾野の原のくすり草せんぶりを摘みぬ指いたむまでに 富士が嶺の裾野の原をうづめ咲く松虫草をひと日見て来ぬ なびき寄る雲のすがたのやはらかきけふ富士が嶺の夕まぐれかな 「沼津に移住した日から毎日毎日、座敷のなかからも縁側からも、門さきからも見て暮らす二つの相かさなった高い山があった。一つは富士で一つは愛鷹である。一つは雲にかくれて見えぬ日でも、その前に横たわっている愛鷹山は、たいていの雨ではよく仰がれた。その二つの山は家から見ては二つただちに相つながっているようだが、じつはそのあいだに十里四方のひろさがあるために呼ぶ十里木という野原があるということを土地の人からきかされたのであった。思いがけぬそのことをきいた日から、私の好奇心は動いていた。よし、さっそく行ってみよう、すこし涼しくなったら行こう、と。」(「富士裾野の三日」)そう思い焦がれていた広野に立って、「この見ごとな野原の一端に出てきて、野を見、山を仰いだ私は、一時まったく茫然としてしまった。そしてその時間が過ぎ去ると、さらにまた新しい心で眼前の風景に対した。」(同前)心躍りが紀行文には詳しく記されている。 |
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山梨県下部温泉 源泉館 | |||
昭和55年(1980)2月26日除幕<86> |
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第4歌集『路上』「六月中旬、甲州の山奥なる某温泉に遊ぶ、当時の歌二十二首」の1首。 雲まよふ山の麓のしづけさをしたひて旅に出でぬ水無月 辻辻に山のせまりて甲斐のくに甲府の町は寂し夏の日 山山のせまりしあひに流れたる河といふものの寂しくあるかな 大河の岸のほとりの砂めく身のさびしさに思ひいたりぬ 山越えて入りし古駅の霧のおくに電灯の見ゆ人の声きこゆ わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな ゆふぐれの河にむかへばすさみたるわれのいのちのいちじろきかな かへるさにこころづきたる掌のうちの河原の石の棄てられぬかな 明治43年(1910)は、1月に第2歌集『独り歌へる』出版、3月雑誌『創作』創刊、4月に第3歌集『別離』が発行されたばかりでなく、啄木の『一握の砂』、吉井勇『酒ほがひ』も刊行され、牧水にとっても近代短歌にとっても画期的な年であった。『創作』・『別離』は、牧水の名を一躍高からしめた。しかし、「油の断えた機械のような赤錆びた生命」「自由の利かぬ程身心が ー 重に心が、疲労してゐた」(5月8日付手紙)。『創作』の編集や短歌の通信添削等の忙しさもあったが、小枝子との関係が一層苦悩を深めていた。そんな折、『別離』の売れ行き好調でまとまった金が入ったため、6月中旬下部温泉に出かけたのであった。 下部温泉には、亡くなる直前の昭和3年(1928)に、足の痛みと食欲不振から衰弱がひどくなり8月21日しばらく滞在し静養するつもりで出かけたが、湯治客で混雑していたため2泊で帰宅。これが最後の旅となった。 |
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山梨県早川町赤沢 七面山麓 羽衣橋際 | |||
昭和45年(1970)11月26日除幕<60> |
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第15歌集『黒土』大正十三年「甲州七面山にて」(その一)16首、(その二)15首。 おのがじし光ふくみてそよぎゐる橡若葉なり山毛欅若葉なり (その一) 雨を呼ぶ嵐うづまける若葉の山に狂ほしきかも水恋鳥は 山襞のしげきこの山いづかたの襞に啼くらむ筒鳥聞ゆ 巻き立つや眼下はるけくこもりたる霧ひとところ乱れむとして (その二) たづきなく渦巻き狂ふ霧の海のはるけきに起る郭公の声 ひとつものに寄り合ひ静もれるわれの心にひびきとほりて郭公聞ゆ 大正13年(1924)6月16日〜18日、牧水は門弟大悟法利雄と二人日蓮宗総本山久遠寺に詣で、七面山に登った。その紀行文「身延七面山紀行」に、「身延路から七面山へ越ゆるところに羽衣橋といふが高々とかかつてゐた。昨日渡つた身延橋も田舎に珍しい大仕掛なものではあつたが、(略)いま見るこの羽衣橋はそれとは打つて変つた神々しい、清楚な、堅牢なものである。(略)/橋にかゝらうとする左手に一つの滝がかゝつてゐた。白糸の滝といふ。高さ約十丈、正保年間徳川家康の側女お萬の方養珠院、三七日間この滝に浴して後七面山に登つたのを縁起として今でもこの滝に身を浄めてお山にかゝる人が多いといふ。(略)/橋から直ぐまた登りとなつた。」とある、その登山口あたりで詠まれた作。 筆蹟は、揮毫したものがないので、下原稿のペン字を拡大したものだという。 |
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山梨県北杜市 高根生涯学習センター | |||
平成3年(1991)3月除幕 |
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第15歌集『黒松』大正十二年の部「念場が原 八が嶽の裾野を甲斐より信濃へ越えむとして念場が原といへるを過ぐ、方八里に及ぶ高原なり」10首中最初の歌。 枯薄に落葉松の葉の散り積みて時雨にぬれし色のさやけさ 落葉松の痩せてかぼそく白樺は冬枯れてただ真白かりけり 甲斐より信濃へ越すと冬枯れの野をひと日来て此処に日暮れぬ 野のなかのこのひとつ家に宿乞ふとわが立ち寄れば霧ぞなびける こはまた此処にもひとつ家ぞある枯れ伏せる草とともに低くて (そのあくる日) 10月28日沼津の自宅を出て御殿場・甲府・小淵沢等を回り、松原湖・佐久と北上した後南下して千曲川の上流を歩き、秩父に抜けて11月の13日に帰宅した「木枯紀行」の旅。 「我等のいま歩いてゐる野原は念場が原といふのであつた。八ヶ嶽の南麓に当る広大な原である。所々に部落があり、開墾地があり、雑草地があり林があつた。大小の石ころの間断なく其処らに散らばつてゐる荒々しい野原であつた。重い曇で、富士も見えず、一切の眺望が利かなかつた。(略)恐れていた夕闇が野末に見え出した。雨はやんで、深い霧が同じく野末をこめて来た。(略)まだ二里近くも歩かねば板橋の宿には着かぬであらう、それまでには人家とても無いであらうと急いでゐる鼻先へ、意外にも一点の灯影を見出した。怪しんで霧の中を近づいて見るとまさしく一軒の家であつた。ほの赤く灯影に染め出された古障子には飲食店と書いてあつた。何の猶予もなくそれを引きあけて中に入つた。 入つて一杯元気をつけてまた歩き出すつもりであつたのだが、赤々と燃えてゐる囲炉裡の火、竈の火を見てゐると、何とももう歩く元気は無かつた。わたしは折入つて一宿の許しを請うた。囲炉裡で何やらの汁を煮てゐた亭主らしい四十男は、わけもなく我等の願ひを容れて呉れた。」(「木枯紀行」) 「我等」とは、小淵沢の宿で落ち合った門人中村柊花と牧水。松原湖畔ではさらに4名の門弟達と心ゆくまで飲みかつ語り合っている。 ひと年にひとたび逢はむ斯く言ひて別れきさなり今ぞ逢ひぬる |
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山梨県北杜市 小淵沢生涯学習センター | |||
昭和24年(1949)11月13日除幕<11> |
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「甲府駅から汽車、小淵沢駅下車、改札口を出やうとすると、これは早や、かねて打合せてあつた事ではあるが信州松代在から来た中村柊花君が宿屋の寝着を着て其処に立つてゐた。(略)/親しい友と久し振に、而かも斯うした旅先などで出逢つて飲む酒位ゐうまいものはあるまい。風呂桶の中からそれを楽しんでゐてサテ相対して盃を取つたのである。飲まぬ先から心は酔うてゐた。/一杯々々が漸く重なりかけてゐた所へ思ひがけぬ来客があつた。この宿に止宿してゐる小学校の先生二人、いま書いて下げた宿帳で我等が事を知り、御高説拝聴と出て来られたのである。/漸くこの二人をも酒の仲間に入れは入れたが要するに座は白けた。先生たちもそれを感じてかほどほどで引上げて行つた。」とは「木枯紀行」の一節だが、その時即興で書かれた短冊の一枚がこの歌だという。 『牧水歌碑めぐり』によると、この歌碑は初め小淵沢西小学校(現在は廃校)の校庭に建てられたが、昭和52年(1977)に「宮久保の小渕沢町文化会館の庭に移された」とあるが、現在は「生涯学習センターこぶちさわ」となっている。そして、牧水歌碑の隣りに夫人・喜志子の歌碑。 はに鈴のほろろこほろぎ夜もすがら枕のしたのあたりにて啼く 喜志子 詠書 説明板によれば、平成元年(1989)11月にふるさと創生事業の一環として小淵沢町が建立したとのこと。「この歌は、夫牧水の歌碑除幕のため、昭和二十四年十一月十三日、喜志子夫人のご来駕をいただき除幕式を行った。その夜、駅前の旅館に泊り、次の夜、久保の進藤春木氏宅に泊り、奥座敷の一室で詠ったものである。/現在、自筆の掛軸として保存されており、それを歌碑としたものである。」 |
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長野県小諸市 懐古園 | ||
昭和9年(1934)11月4日除幕<2> |
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大悟法氏によれば、下部温泉を訪れた少し前の頃、小枝子が女児を出産しているらしい。戸籍上は広島に住む男の妻であり、さらには牧水に疑いを抱かしめるような存在もありと、まことに複雑な状況の中での出産で、生まれた子は里子に出される。苦悩と疲労困憊で『創作』の編集を友人に託し、明治43年(1910)9月牧水は東京を脱出する。 2日東京を発った牧水は、まず大学時代の友人飯田蛇笏を山梨県境川村(現笛吹市)に訪ね10日ほど滞在した後、門下の岩崎樫郎のいる小諸の田村病院に身を寄せ、11月16日まで滞在する。ここでの生活ぶりや長逗留の理由などについては、田村病院長の孫にあたる田村志津枝著『若山牧水 さびし かなし』に詳しい。 第4歌集『路上』「九月初めより十一月半ばまで信濃国浅間山の麓に遊べり、歌九十六首」中の1首。 名も知らぬ山のふもと辺過ぎむとし秋草のはなを摘みめぐるかな 城あとの落葉に似たる公園に入る旅人の夏帽子かな (小諸懐古園にて) 秋晴のふもとをしろき雲ゆけり風の浅間の寂しくあるかな 胡桃とりつかれて草に寝てあれば赤とんぼ等が来てものをいふ かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ 小諸なる医師の家の二階より見たる浅間の姿のさびしさ 秋風のそら晴れぬれば千曲川白き河原に出てあそぶかな われになほこの美しき恋人のあるといふことがかなしかりけり 汝が弾ける糸のしらべにさそはれてひたおもふなり小枝子がことを 恋人よわれらひとしくおとろへて尚ほ生くことを如何におもふぞ 秋かぜの信濃に居りてあを海の鴎をおもふ寂しきかなや あはれなる女ひとりが住むゆゑにこの東京のさびしきことかな (以下帰京して) 終りたる旅を見かへるさびしさにさそはれてまた旅をしぞおもふ 歌碑は懐古園二の丸跡の石垣に刻まれたユニークなもので、沼津千本浜に次ぐ第2号。歌については、これも大悟法氏の解釈では「ほろびしもの」は 破綻した「初恋」だったという。人口に膾炙した歌も多く、483首中の2割弱をしめるこの一連が『路上』の核となっている。 |
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